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VIVALDI – WINTER (Four Seasons) Organ of Basílica de Santa María, Elche, Spain - JONATHAN SCOTT


コラム
ジョナサン・スコット演奏ビバルディ「四季」冬である。4分10秒頃からの旋律は有名だが、ビバルディの「四季」の中では「冬」が最も人気が高いようで、YOU TUBEのジョナサン・スコットシリーズで他の季節の10倍以上の再生数を叩き出している。今宵はこの名曲を聴きながら土曜の夜のひと時を寛いでいる。本日は比較的暖かかったので芋焼酎のオンザロックを愉しんでいる。

このところ天候が緩み、木枯しの吹く風情とはなっていない我が仙台であるが、暦の上では既に立冬を過ぎ冬である。仙台の冬と言えば太平洋側気候のもたらす晴天と空っ風(強い季節風)が頭に浮かぶ。間もなくそんな季節に突入するわけだが、今は長い秋が居座っているという印象である。東京よりは寒いが八戸や宮古よりは暖かい。これは緯度の他、黒潮による暖流(金華山沖で寒流の親潮と合流)による恩恵が大きい。仕事で北東北の冬を何度か経験した自分には、仙台の冬はさほど寒く感じない。

自分は定年前の一年半前に運よく福島県浜通の相馬勤務となったが、このころから運も上向きに移行している気がする。無宗教、無神論の自分には運などあってないようなものだが、人生において避け難い波(上げ潮と引き潮)は、はっきりと意識している。上げ潮が続けばいつかは潮が引くのは理の当然。定年したばかりのころ、思うところあって職業ドライバーという職業を選択した自分だが、この職業には縁がなかったようだ。

その後、縁あって建設会社の安全管理という仕事がセカンドライフにおける自分の生業となった。この仕事は人を相手にする仕事(仁や礼節抜きでは務まらない仕事)である。人間関係の煩わしさに嫌気が差し、一時は10トンダンプのハンドルを握った自分だが、天は自分の意図とは裏腹に、安全管理という職業を自分に授けてくれた。これを単なる偶然と捉えるのか?それとも因果と捉えるのか?その答えは永遠に解けない気がする。

ただ救いになるのは、若手社員の成長に自らが一役買い、自分も成長できるという点でる。教える立場だが教えられる。これは教職に就いておられるかたの多くが感じられているのではないだろうか?郷里長州の萩城下で「松下村塾」なる私塾を開いた吉田松陰は塾生に対して「私はあなたがたに教えることは出来ないが、一緒に学ぶことは出来ます」と述べたという。安全管理に携わる自分もこれとまったく同じ考えである。人間は謙譲の心が失われると驕り高ぶりに走る。その時点で人間としての成長は阻害される。自分はそうあってはならないと常々考えるのである。

震災復興のスローガンを思い浮かべて頂きたい。「ともに前へ!宮城」という文言が被災者の心に訴えるものは大きい。これは自らの心境を被災者と同じ境遇に置くことで、慈愛の意を表現するということである。仮に「ともに前へ!」の文言に「ともに」がなくなったとしよう。「前に進め!」という命令調になってしまい、高飛車な姿勢という印象を与えてしまう文言になる。人はものを訴える前に先ず、自らの身を低くしなければなならい。さもないと不遜と取られてしまう。だから仁の他に謙譲は必要なのである。自分はこの理を吸収するまで多大な授業料を払ったが、これも「無用の用」(孟子思想:一見すると役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしているということ)と捉えている。

自分は一時、挨拶をしない人間にどう対処していいか迷ったことがあったが今は違う。孔子は誰にでも心を開いたわけでなく、弟子に対しては礼節を尽くし自分を頼ってくれる人物のみに、様々な助言したとされる。教える、教えられることはけして別々なものでなく、表裏一体なのである。論語でいうところの「有隣」の真意を考える時、持ち合わせた徳が徳のある人物を呼ぶわけだが、逆に言えば徳のない人物は寄って来ないということである。だからと言って徳のない人物におべっかを言う必要はない。相手がこの理を悟れば逆に相手から歩み寄ってくるものである。自分はこの理を悟ってから礼節のない者に対しての対応を迷うことがなくなった。

1ジョナサン・スコット着座

自分は長らく、建設業を自らの生業としてきたが、本日は若かりし頃の自分がよく行った仙台の盛り場を紹介したい。東北一の歓楽街とされる国分町。これは伊達と対峙した中世豪族国分氏(その後伊達に吸収されるものの、重臣として活躍するには至らなかった)の名がついた通りである。独眼竜政宗(伊達政宗の異名)という傑出した武将が現れ、戦国期終盤の東北の勢力図は大きく変わっていった。

その際に伊達側に靡いた豪族の多くは生き残り、そうでない豪族は憂れき目に遭ったのである。コロナのせいでまだまだマスクが手放せないが、道行く若いカップルに遭遇すると何かこちらまで、モチベーションを頂ける気がしてくるのである。

2国分町

国分町と交差する元鍛冶丁通である。方角的には国分町を西に向かった地点となる。通りの右側には交番と公園がある。付近には、つい最近できたばかりのホテルがあるが、新型コロナにもめげずよくやってくれたという印象である。

3元鍛冶丁公園

左側の肌色の建物がセブンコートビルである。築年は知る由もないが、自分が20代のころ、既にこのビルはあった。(往時の建物のカラーは鮮やかなエメラルドグリーンであった)このビルの3階に入っているクラブが自分の行きつけの店だった。あれから三十数年が経ち、多くのことが変わった。

4セブンコートビル

自分は新卒からずっと建設会社の最前線で生業を営んできたが、その際複数の企業とJVも経験している。そんな際、若手社員同士のコミュニケーションの構築に大いに役立ったのが、このクラブ「ニュー東京」(自らが開発した店)であった。仕事が終わった後で、ボーリングに興じた後で複数で入店したことも何度かあった。さすがに、しらふで若い女の子が大勢いるクラブに入るのは気恥ずかしいので、居酒屋でビールを飲んで顔が赤くなってから入店したことも多かった。🥰(笑)ちなみにニュー東京仙台店の平均年齢は22~23歳だったと聞く。

ニュー東京には姉妹店があった。それは福島県の郡山と栃木県の宇都宮である。往時のニュー東京は生バンドが入っており、流行の洋楽(ポップス)がよく演奏された。客には建設業や自衛隊が多かった。昔は「職場の花」という言葉があったが、男だけの職場はやはり寂しい。ニュー東京は同伴制を採用しており、多くの客を店に同伴することが売れっ子ホステスさんにとってのステイタスであり、トップセールスへの道だったのである。客の中には夕方頃に喫茶店や居酒屋などでホステスさんと逢い、夜の顔とは異なった顔に接したかたも多かったことだろう。

5セブンコートビル絵

横町コメント
ニュー東京仙台国分町店には様々な裏話があります。本日自分が話せる範囲はここまでですが、更に年月が経てば裏話も披露できる日も来るのかも知れません。80年代半ば~80年代後半と言えば、まだまだバブルの真っただ中でした。今の若いかたには恐らくピンと来ないことなのかも知れません。今思い起こせば、こういう羽ぶりのいい時代の恩恵に授かった自分は運が良かったのかも知れません。

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6七百横町
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