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本日は去る5月に訪れた岩沼市の鵜ヶ埼城跡について紹介したい。現在私は文芸誌みちのく春秋に作品を寄稿している。テーマは『東街道をゆく』である。今回紹介する鵜ヶ埼城はJR岩沼駅の西口で、古くから東街道と言われる道(現在の県道39号線の辺りと言われる)からやや離れているが、この土地の歴史(発掘物は縄文時代に遡る)と歴代城主の顔ぶれからいってどうしても外せないと判断し、掲載に至った次第である。

ここが岩沼駅西口であるが、御覧の通り鉄道開通と駅の建設によって、周囲の地形も大きく改変されており、往時の趣を偲ぶのは極めて困難である。左側の土の盛られた部分がロータリーである。

1岩沼駅西口

Google3D立体画像で鵜ヶ埼城跡の位置を確認して頂きたい。周囲はすっかり住宅地の中となっている。

2東からのGoogle3D立体画像

私は城跡を訪ねる時、付近を入念に調べることにしている。土塁や堀跡などの有無をチェックするためである。これは南側からのアングルである。木々が生い茂り、小高い丘になった部分が鵜ヶ埼城址である。今回の記事を書く上で参考にした資料は郷土史家の紫桃正隆著『仙台領内 古城・館』第4巻である。尚、鵜ヶ埼城は別名武隈館とも言われる。

3住宅地の背後の丘

下の地図は今昔マップからの引用である。大正初期の地図には城址のマークである凸が記されている。原本のままだとわかり難いので赤で着色してみた。凸マークの位置はほぼ現在のロータリーと一致するようだ。鉄道の開通が明治20年(1887年)なので、それ以前の地形を調べのは困難である。

4大正初期地図

西側の鵜ヶ埼公園入口から入って細長い公園を進み左に回り込むと、このような標柱が立っている。比較的新しい標柱である。標柱の文字読むと、何と縄文時代の遺物も見つかったようで、この地に古くから人が生活した様子が窺える。その後中世~近世にかけて軍事的な拠点(城・館)が置かれたようで、複合遺跡と言ってもいいようだ。

紫桃氏(1921~2008)によると、城郭があったとされる場所の比高は約10メートルなので、周囲には恐らく堀が巡らされていたと推察される。城の規模は東西40メートル、南北200メートルの細長い地形である。


歴史としては天暦7年(953年)多田満仲(一説に百済の敬福とも)が築城し、複数の城主を経て、戦国末期には伊達の勢力域に組み込まれ、家臣の配置が行われた経緯がある。戦国末期から江戸期にかけては、仙台藩士の泉田安芸、田村宗良、古内主膳が城主として名を連ね、明治維新に至っている。


5標柱

これは北側からのGoogle3D立体画像である。

6北側からのGoogle3D立体画像

また二の丸があったと思われるところに井戸らしきものが残っているのが、いつ頃からのものなのかは定かでない。紫桃氏が取材で訪れた頃から既に50年近く経っている。往時でさえ往古の城の縁を偲べるものはさほどなかったようが、南側の公園は帯郭と思われる。

「風土記」によると、城中に一小池あり。池底の泥土数尺にして岩石に囲まれ、早魃(干ばつ)と雖も(いえども)水乾くことなし。これ「岩沼」の名の起こりならんと…書かれ岩沼の由来について触れている。

7曲輪の井戸

本丸があったと思われる場所は平らで、かなり広く僅かに往古の威勢を偲べるものがある。紫桃氏が取材で訪れた50年近く前には、最後の城主となった古内氏の末裔が住んでおられたとのことであるが、この地をいつ頃引き上げたのかは定かでない。

8鵜ヶ埼城址北側遠望

標高が一番高いと思われる場所である。地形から言ってこの辺りに鵜ヶ埼神社(岩沼城主・古内重広夫妻を祀った神社)があったのだろうか?神社は昭和58年に別な場所に移転している。ちなみに、岩沼駅近くに存在した古い立札によると、古内主膳重広は伊達政宗の祖父・伊達晴宗の四男の国分守重の遺子とされる。然らば、古内主膳重広は仙台藩祖・伊達政宗の親類縁者ということになる。父の国分守重は後に出奔したがゆえに、名を古内と変えるに至ったと察している。

9最高地点

西端の部分から北側(仙台・名取方面)を望んでみた。紫桃氏によると「古内氏の末裔は城跡の西の丘に栄えた」とされるが、そうだとすれば、この辺に古内氏の末裔の居宅があったと思われる。

10西橋から北側を望む

昭和52年頃の地図(今昔マップより)には、はっきりと神社のマーク⛩がついている。

11昭和52年地図

横町コメント
後で調べてわかったことですが、鵜ヶ埼城主であった古内主膳重広は仙台藩祖・伊達政宗と血が繋がった人物であるということになります。実は古内主膳重広の実父の国分能登守盛重が伊達と敵対した佐竹を頼って出奔した人物なので、意外なものを感じました。或いは、このあたりには情が入ったのかも知れません。

そろそろ文芸誌の締め切りも迫ってきたので、本日は入念な下調べの上で記事を書きました。狙い目としては、これまでの東街道に関する著物の多くは官衙跡や寺社や道標や祠を追う割に、城跡や館跡を追えていないということです。これらを追えば独自性が出てくると考えたのです。但し追おうとする対象が、広範囲に渡り且つ膨大なものなので、このあたりは風呂敷を広げ過ぎないようにと思っています。執筆において考えることはこのような点です。

文芸誌における私の割り当ては一回当たり、原稿用紙で11枚弱(4300字)ですが、写真を入れるスペースも考慮しなければならないので、実質4000字程度(原稿用紙10枚程度)と考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。
  


12七百横町
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