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初めに
間もなくみちのく春秋の寄稿の締め切りが迫ったが、本日はその下書きをブログに掲載したい。以前にアップした史跡もあるが、文献などを調べて大幅に見直していることを最初にお断りしておきたい。調べたことをそのまま書くのではなく、所々に私見も入れてエッセイ風としている。アドリブを入れない歴史エッセイはつまらない。面白いか否かは読者諸氏の主観に委ねたい。

金蛇水神社


岩沼市の東街道を訪ねたのは2020年の5月のことだった。神社に隣接する庭園だが、自然の丘陵を利したもので見事に周囲の景観に飛び込んでいる。 金蛇水神社は岩沼市三色吉(「みいろより」、「みうるし」とも)地区の奥まった場所に位置している。連なった石灯篭を横目に道路を進むと立派な白い鳥居がある。建物全体は結構新しいが由緒は古代に遡る。


人々がこの地に住み農耕をはじめた時に、山より平野へ水の流れ出るこの場所に水神を祀った。平安時代中頃の永祚元年(989年)、一条天皇の御代、京都三条の小鍛冶宗近が、天皇の御佩刀を鍛えよとの勅命を受け、霊水を求めて巡国の折、社頭を流れる清水を見て治炉を構えたが、カエルの鳴き声に邪魔されたため、鉄を截って雌雄の金蛇を作り水神宮に献じたところ、カエルの鳴き声は止み宗近は宝刀を鍛え上げることができたという。


この金蛇が金蛇水神社の起源とされる。古来より、厄除開運、商売繁盛、金運円満、海上安全の神として、多く人々の信仰を集めている。金蛇水神社には仙台市内に三つの分霊社(青葉区立町、青葉区一番町仙台三越デパート隣、宮城野区鉄砲町)が存在する。宮城県神社名鑑によると岩沼市の金蛇水神社の崇敬者は三万五千ほどと言われる。


金蛇水神社御神木(ウロの中に白蛇がいるように見える 2020年5月撮影)
1金蛇水神社の御神体JPG

1000坪に及ぶ牡丹園には1300株にも及ぶ牡丹、境内には巨大な藤の木がある。藤の木はその昔、一本の株から9本の枝が分かれていたことから「九竜の藤」と呼ばれている。藤棚の下のベンチにはマスク姿の参拝者が思い思いに憩いのひと時を楽しんでいた。金蛇弁財天は人々に大いなる恵みを授け、また人を護り、天から来る災いを封じる御利益があるとされる。今はコロナ禍真っ最中ということもあり、心なしか未知なるウイルスの鎮静を願う人も多いようだ。 境内には蛇の形を浮き彫りにしたように見える自然石が多数奉納されている。神社仏閣は願をかける対象の一つであるが、これに動植物が絡んでくると一層御身近なものに感じられる。人々の癒しを求める心は今も昔も変わらないのである。


鵜ヶ崎城

鵜ヶ(岩沼要害とも、武隈館とも)はかつて現JR岩沼駅と西口の辺りに存在し、古くから東街道と言われる道(現在の県道39号線の辺りと言われる)からはやや離れている。今は鵜ヶ崎公園となっていて、付近住民の格好の散歩コースとなっているが、この土地の歴史(発掘物は縄文時代に遡る)と歴代城主の顔ぶれからいって東街道との深い結びつきを感じた。


郷土史家の紫桃正隆著『仙台領内 古城・館』第4巻によると、城郭があったとされる場所の比高は約10メートルで、仙台市博物館所蔵の『岩沼平城御廻切絵図』によると、江戸時代には周囲に堀が巡らされていたようだ。城の規模は岩沼古内家相続次第書によると南北百五十間、東西六十六間で面積は九千九百坪に及ぶほどのものであったとされる。紫桃氏が取材で訪れた頃から既に五十年近く経っている。往時でさえ往古の城の縁を偲べるものはさほどなかったようが、大規模な改変が行われたのを十分に視野に入れる必要がある。


二番目に高い箇所には井戸らしきものが残っているのが、いつ頃からのものなのかは定かでない。かつては鵜ヶ埼神社が鎮座し、昭和の末頃には幕末まで藩主を務めた古内主膳の末裔が住んでいたという。(鵜ヶ埼神社は別な場所に移転)主閣があったと思われる場所はかなり広いが、僅かに往古の威勢を偲べるものがある。


城の歴史としては天暦7年(953年)多田満仲(一説に百済の敬福とも)が築城し、中世には複数の城主を経て、戦国末期には伊達の勢力域に組み込まれ、家臣の配置が行われた経緯がある。伊達家臣として泉田安芸、田村宗良、古内主膳らが城主として名を連ね、明治維新に至っている。


ところで、古内主膳重広は仙台藩祖・伊達政宗と血が繋がった人物である。岩沼駅近くに存在した古い立札によると、古内主膳重広は伊達政宗の祖父・伊達晴宗の四男の国分守重の遺子とされる。実は古内主膳重広の実父の国分能登守盛重が伊達と敵対した佐竹を頼って出奔した人物なので、意外なものを感じる。かつて若林城に居を構えた叔父の盛重の頃からは大幅に石高を減らされたが、岩沼の地で城主を務めたことになる。このあたりには情が入ったのかも知れない。


史跡鵜ヶ崎城址(2020年5月撮影)

2鵜ヶ埼城標柱


「風土記」によると、城中に一小池あり。池底の泥土数尺にして岩石に囲まれ、早魃(干ばつ)と雖も(いえども)水乾くことなし。これ「岩沼」の名の起こりならんと…書かれ、岩沼の由来について触れている。 大正の頃の絵図には鵜ヶ崎公園の南側に沼(城に巡らされた堀の名残?)があったとされるが、「風土記」で言う「岩沼」はその沼のことを言っているのであろうか。私は古内主膳の末裔が住んでいたと思われる場所に立ち止まって周囲を見下ろしてみた。南側を望めば名取の高館丘陵も視界に入る。これだけ城主が入れ替わる城も珍しいが、まさに兵どもが夢の跡という印象である。


鵜ヶ崎城址では2004年に教育委員会による発掘調査が行われ、6500年ほど前の縄文土器が見つかっている。土器は二百数十点に及び、岩沼市域で最も古い縄文遺跡となっている。紀元前4500年頃は縄文海進と呼ばれる温暖化のピークで海水面が現在よりも2~3m高かった。第Ⅰ浜堤列はその頃(縄文中期)に形成され、この丘を挟む形で南北に遠浅の内湾が広がり、周辺には岩沼最古の縄文人が居住しムラのようなものを形成していたようだ。


一関博物館所蔵の藩政時代の絵図に、JR東北本線と駅の位置をプロットしてみた。参考にしたのはSSブログの竹駒の里様のブログである。

3駅の位置想像による一関市博物館絵図

東街道と浜堤列の関係

近年、岩沼市を南北に走る浜堤列(ひんていれつ:堆積によって海岸線に形成された堤防)と東街道との関りが指摘されている。東街道が縄文中期に形成された第一浜堤列のほぼ上を通っていたとする説で、これまでの説である岩沼の西部丘陵~名取の高館丘陵の東麓を走っていたとする説(概ね現在の県道39号線)と相対するものとなっているが、もし第一浜堤列の微高地上に道路があったとするならば、蝦夷との有事に大軍を送るには都合がよく、理にかなっている気がする。


実はこれまで紹介してきた岩沼市域の原遺跡と長谷古館 は阿武隈川の自然堤防上に位置するものであり、鵜ヶ崎城は第一浜堤列上に形成されたものである。地質学を視野に入れた最近の研究は、これまでの盲点(旧道の存在を史跡の分布にのみ頼るもの)を浮き彫りにした感がある。


但しこの件について、私は以前も述べたように東街道が一本の道だったと決めつける必要はまったくないと考えている。しいて言うならば、山麓の道を「文化と信仰を司った道」、第一浜堤列上の道を「軍事や物資運搬のための道」と位置づけしたい。元々東街道という名称自体が江戸期中頃から呼び名として使われたもので、それまでの東山道や奥大道と重なる部分が多いことから、これらを明確に定義して分類するのは歴史の研究者の範疇に委ねたいと考えたのである。


岩沼市の地形分類図に史跡の位置をプロットしてみた。(『岩沼市史 1通史編Ⅰ 原始・古代・中世』より引用

4岩沼市の地形分類図と史跡の位置

かめ塚古墳

かめ塚古墳を訪れたのは2013年の5月のことであった。かめ塚古墳は1950年に宮城県の史跡として指定されている。鵜ヶ崎城址から北に1キロほど離れた地点で、第Ⅰ浜堤列の西側にあたる場所である。古墳の西側から南側にかけては、かめ塚西遺跡(弥生~古墳時代)が存在する。かめ塚古墳では2012年の発掘調査によって木製の鋤と土師器、須恵器の破片が発見された。


鋤の材質はクヌギとされるが、形状が一木二又であることから、古墳時代前期のものと見られ、これによってこの古墳が造られた時期は4世紀頃と推察されている。かめ塚古墳は東北一の規模とされる名取市の雷神山古墳や、仙台市の遠見塚古墳などよりもやや古い時期に造られたようだ。円墳の丘の上には山神が祀られている。やや小型ながらも、群をなさずに単独で存在するこの古墳に、一体どんな人物が眠っているのか興味は尽きないところである。


現在のかめ塚古墳は周囲の土砂に覆われ、30mほどの墳丘長だが、発掘調査によって48mほどの長さの前方後円墳で、周囲には周溝が巡らされていたことが判明した。縄文中期の頃ピークに達した海進が止み、今度は海岸線が徐々に東に移っていった。これによって一部の人々は海に近い場所を求めて居住域を変えていったのだろう。


ここは仙台空港にも近く、離着陸の航空機が時折往来しその都度文明の利器に目を奪われてしまう。それにしても瓢箪型をした美しい古墳は周囲の景観と不思議なほど溶け込んでいる。折しも田植えを終えたばかりの周囲の水田からは蛙の鳴き声が響き、長閑な風情である。今でこそ、海から離れた場所になってしまったが、往時の人には潮騒も聞こえ、もっと海を身近に感じたのだろう。


かめ塚古墳を南側より望む(撮影2013年5月)

5かめ塚古墳

横町挨拶
少し字数が足りないかも知れませんが、原稿の骨子となるものは出来ました。後は細部を見直して仕上げて行きたいと考えています。

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6五百五十横町
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