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端書き
本日、書庫に「紫桃正隆の研究」を追加した。既に二つの記事を移したが、これから自分が葛西氏、大崎氏のことを研究するに当たり、郷土の先賢史家である彼の著作の数々は避けて通れないと思ったからである。奥州葛西氏については既に末永能登守氏(LIVEDDOORブログ)が多くのことを書いておられる。彼とは過去に二回ほどお会いしたが、執筆を続ける上でこれからも様々な接点が出てくるものと考えている。
 
ここで私が葛西氏のことを調べる動機となったことを述べたい。祖父方親戚A氏によると、代々の言い伝えでは、「先祖は岩手県から移り住み、川村孫兵衛の北上川開削事業に人足として携わったらしい」という。私は2017年のルーツ調べ(原戸籍による)で、18世紀後半に生まれた7世祖父(自分よりも7代前の人物)の名を知ったが、祖父方の名字は葛西(35万石を誇った中世豪族・現宮城県北部、同東部、岩手県北部を支配)に仕えた家臣に見られるもので、ルーツを遡れば戦国末期の葛西氏の弱体化に伴い、或いは帰農したのかも知れない。そして生き残る為に今度は伊達側につき、この一大事業に関わった。推測ではあるが、そうしたことが今の私の執筆への強い推進力に繋がっている。

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史跡「石巻城跡」を訪ねて
息子とともに郷里・石巻を訪ねたのは去る3月21日(水)のことであった。



率直に行って石巻城跡は、我々宮城県民にとってやや知名度の低いものを感じるものがある。それは中世の頃、ここに城があったこと自体が広く知られてないからである。
 
※この地に葛西氏の城があったことを伝える石碑は大正時代に立てられたものである。


※本丸があったとされる鹿島神社(今でも桜の季節になると多くの花見客が訪れる場所である)


これをもっとわかりやすく伝えるには「宮城県の石巻の日和山には、かつて城があり、これを石巻城(日和城とも)と呼んでいます。」と述べる必要があると感じている。本日は私が尊敬して止まない紫桃正隆氏の著物『仙台領内古城・館』第二巻と『仙台領の戦国誌』をもとに、石巻城について迫ってみたい。
 
※本丸のあったとされる鹿島神社を北側から望む。

その前に伊達政宗と石巻の関わりについても触れておきたい。関ヶ原の戦いの直後に仙台城を構築した伊達政宗であるが、実は石巻も本城を構える候補地の一つであった。ちなみに、他の候補地とは三つ(仙台市の茂ヶ崎、榴ヶ岡、青葉山【現・仙台城】)であり、全部で四箇所が候補に上がったと言われる。この中で着目すべきことは石巻以外の三箇所は全て現仙台地区であるということである。

では、何故政宗はここ石巻に居城を構えようと考えたのか?その大きな理由として石巻が将来の水運流通の中心地になるという予測があったからである。伊達の城を青葉山と定めた徳川家康(決定権は家康にあった)から見れば、或いは石巻は政宗に一番城を建てて欲しくない場所だったのかも知れない。
 
渡辺信夫氏(東北大学文学博士)著の『海からの文化』みちのく海運史によると、「石巻の開港の歴史を正確に述べることは困難」としている。その根拠として、慶長5年の『葛西、大崎船止日記』によると、「中世末期の石巻に既に河口港になっていた」という記述が見られるからである。
 
江戸時代になって伊達政宗の一大事業で拓かれた感のある石巻港が、小規模ながら中世末期から港として機能していた。これは伊達氏の歴史を調べている史家にとって、新鮮な響きのあることなのかも知れない。石巻を発展に導いたのは伊達政宗には違いないのだが、それ以前の中世末期のことも知りたい。それがなかなか叶わないのは、往時の石巻港を伝える資料が極端に少ないためと私は捉えている。
 
伊達政宗は関ヶ原の戦いの後で毛利の浪人となった川村孫兵衛重吉を抱えた。それは彼の有能な土木技術を見抜いての抜擢だった。孫兵衛はそんな主君の期待に応えて、北上川、迫川、江合川の三河川の改修工事(1616~1626)で敏腕を振るったわけだが、孫兵衛はこれらの三河川合流工事の他、大河の河口となる石巻地域の開削にも携わり、新北上川(それまでの本流は雄勝地区に注ぐ現追波川)を造り上げた中心的人物である。
 
※石巻城址の川村孫兵衛重吉銅像。(石巻では知名度の高い人物である)


さて、話を石巻城のことに戻したい。実は、さほど知られてはいないが、この日和山は戦略的な面において、築城に適したものを有していた。
 
この地図のスケッチは紫桃正隆氏によるもので中世の頃の石巻城のレイアウトを示したものである。等高線に着目して頂きたい。城の北は急勾配の坂、東と南は天然の断崖が迫っているのがおわかりと思う。唯一西側が弱点になる城構えだが、ここには掘切りがあったようだ。

紫桃正隆『仙台領内古城・館』第二巻906頁より転載


そして何よりも遠望が利く。石巻地区を一望できるだけでなく、かなり遠い内陸(大崎平野の一部)や牡鹿半島も見渡せる場所なのである。鎌倉時代の13世紀半ば頃、居城を構えた葛西氏は、ここ日和山にそのような地の利を見出したのでないだろうか?

※石巻城址より石巻市街地(新北上川上流)を望む。
 
※石巻城址より牡鹿半島方面を望む。


ここで葛西氏と石巻の関わりについて触れておきたい。
①関東(武蔵国豊島郡)の豪族である豊島清光の三男・清重が独立して下総国・葛西の地(現千葉県北部)に居住し葛西三郎清重を名乗る。
②清重は1189年(文治5)源頼朝の奥州藤原征伐で手柄を挙げる。
③奥州平定後、偉功第一の武将として清重が奥州総奉行職・検非違使に取り立てられる。
④清重は領地として葛西7郡(牡鹿・ 登米・本吉・磐井・胆沢・江刺・気仙の各郡)を賜ったが、すぐに奥州には下向せず、当初は平泉を治府の地として定め、その後石巻には代官を置くに留まる。
⑤鎌倉幕府の内部で北条氏の勢力が強くなり、奥州各地で兼併(自領として土地を併合すること)が行われると、奥州に多くの所領を持つ葛西氏は圧力や家臣の謀反を懸念して下向を選んだ。
⑥石巻の地が葛西氏の治府の地として定まったのは4代・清経、5代・清宗の頃と考えられている。西暦でいうと1250年頃と考えられている。
 
葛西氏の下向は1323年の相馬孫五郎重胤の奥州相双地区への下向とも似ている気がする。その後、葛西氏は南北朝時代になると、南朝側につき、隣国の大崎氏(北朝側)と軋轢を繰り返すことになる。葛西氏当主の石巻治府は15代・葛西晴胤が1536年(天文5)に寺池(現宮城県登米市)に居城を移すまで、300年弱に渡って続いた。

その後葛西氏は太閤秀吉の小田原攻めに参加せず、滅びることになるが、紫桃氏によると内部抗争の激化でとても参加できる状態でなかったという。葛西家の最後の当主となった葛西晴信は切腹を免れ、政宗の執りなしで一時大郷に隠遁の後、北陸石川の前田家を便り、再度隠棲し、その後ひっそりと没したという。秀吉の奥州仕置の後、伊達家に渡った石巻だが、徳川の時代となり本城を仙台としたことで、ここに城が建てられることは二度となかった。

横町コメント
私の歴史研究と執筆は今転機に掛ってきています。それは自分のルーツのことを書くという夢を果たすには、伊達のことだけでなく、葛西のことを学ぶ必要性が出てきた為です。そういう意味で本日は未熟ながら第一歩を踏み出したつもりです。まさに「隗より始めよ」という言葉が今の自分の奮起を促すものと捉えています。

登山で絶壁に遭遇した際、最初の足場は岩を削ってでも確保する。本日の私はそんな気分で中世大名葛西氏という絶壁に関する記事をアップした次第です。第一歩で堅固な足場を作っておけば次がやりやすくなる。記事中の箇条書きによる前後関係の整理は第二歩以降の記事に大きな追い風をもたらすと考えています。

これからは更にアンテナを広げて葛西氏についての研鑽を深めて参りたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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