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去る2月の初め、私は青葉区の街中(北一番丁晩翠通の交差点の傍)で見慣れない立札を見かけた。立札が立っているのは画像のほぼ中央に位置する電柱の左脇のところである。どうやら史跡に関するものらしい。史跡があった場所は右側の白い建物(仙台市役所二日町分庁舎)のところである。

1二日町分庁舎

幕末の安政時代に描かれた地図に「町奉行御殿屋敷」と書いてある地点がここ(北一番丁)である。奉行所があったのは赤線で囲んだ部分だが、左に面した道が細横丁と言って現在の晩翠通の前身である。今は4車線の幅広い通りとなったが、昔の細横丁は読んで字の如く狭い横丁であった。奉行所の周囲には同心(下級役人の武士)が40人前後住んでいたと言う。弘化以前は町奉行を務める侍の屋敷で執務を行う役宅制が採用され、正式な奉行所として発足したのは嘉永年間(1848年~1854年)からであったとされる。仙台藩町奉行所は北と南に一箇所ずつ設置されたが、ここは北奉行所のほうである。

2旧地図

Google3D立体画像で仙台藩町奉行所跡(黄色い矢印)をご覧頂きたい。今はすっかりビル街となり、残念ながら往時の面影を感じさせるものは一切なくなっている。

3Google3D立体画像

江戸時代の初期は千石以上の上級家臣が町奉行を務めたが、幕末近くになると下級家臣も町奉行に登用されるようになったという。このあたりは時代の移り変わりとも言えるのではないだろうか?

4説明板

北奉行所跡から西方向を望んでみた。晩翠通を隔てた辻向い(左側の建物)には仙台法務局がある。

5晩翠通を挟んだ向かい側

横町コメント
仙台藩は62万石の大藩ゆえ、このような町奉行所が二つ必要だったのでしょう。町奉行役は今で言えば市長や区長、同心は市議会議員と言ったところでしょうか?もちろん侍社会は縦社会なので、その上に目付け役も置かれたのかも知れません。明治維新を経て市役所の分庁舎として生まれ変わったことは、時代を経ても建物がほぼ同じ用途で使われていることを意味します。何れにしても仙台藩町奉行に関しては資料も少ないだけに、その解明には興味深いものを感じます。是非今後の研究の成果を待ちたい所存です。

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6七百横町
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