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本日は天気も良かったので太白区鈎取の太子堂を訪ねた。左右に位置する道は秋保街道とも二口街道とも言われた旧道である。T型に交差する小路も旧道と思われるが、或いは東街道なのかも知れない。東街道とは律令国家としての骨格が作られた古代から中世にかけての道路であるが、全体像は極めて朧である。さしずめ、大和政権が蝦夷を制圧する為に造った道と考えても間違いはない。

実はこの辺りの名取川渡河の東街道のルートには数説があり、もっと仙台市街地に近いところ(宮沢橋付近)を突っ切ったとする説もあるのである。それに比べてここはあまりにも西に寄っていて、大和政権や源頼朝が北に向かって大軍を派遣するには遠回りとなり、実用的でないわけだが、それ以外の用途(少数の移動)で使うのなら、大いに考えられるルートである。その理由を裏付けるものとして、南側の名取川を隔てた対岸に熊野神社三社があったことが挙げられる。

1遠景

旧道沿いには道標が立っていて「菅生道」と刻まれている。この道は確かに菅生(宮城県村田町)にも至るが、二口峠を通れば山形にも通ずる道である。

2菅生道

Google3D立体画像で太子堂の位置を確認して頂きたい。

3鈎取太子堂位置Google3D立体画像

郷土史家・菅野照光著『太白区の移り変わり 山・川・道ものがたり』によると、本堂は正保4年(1647年)に嶋貫次左衛門によって再興されたものと伝えられ、旅人の安全を願う為に建てられたものとされる。藩政時代、多くの旅人がこの堂に差し掛かると足を止め、ここで旅の安全を祈願したのだろう。

4南東側全景

太子堂はこれまで数度に渡って修復工事が行われ、有難いことにその姿を現代に残している。藩政時代には榴岡(宮城野区の桜の名所)から二本の枝垂れ桜が移植され、そのうちの一本が今も境内に存在する。

5説銘板UP

境内には複数の祠が存在している。この道を真っすぐに行けば菅生、山形方面である。

6祠群

石仏が彫られた祠には挿し花が添えられていた。付近のかたなのだろうか?日本人の慈愛に満ちた御心を垣間見るひと時であった。

7石仏

生き残ったほうの枝垂れ桜は既に葉桜となっているが、満開の際はさぞかし見事な咲き様となるのだろう。

8枝垂れ桜

横町コメント
次回発行みちのく春秋の夏号(7月10日発行)の原稿締め切りは6月10日です。それまでまだ50日近くありますが、地道に取材を行い様々な資料を基に精査した上で『東街道をゆく』を書きたいと考えています。先人郷土史家とは重ならないようにという思いもありますが、それには独自の視点でこの旧道を俯瞰するしかないと認識しております。

本日はこの後に栗木の渡し(名取川を渡ったとされる地点)と熊野本宮社と熊野神社、名取老女の墓にも足を運びましたが、とても紹介し切れませんので、後日にしたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。
  


9六百六十六横町
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