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本日は去る4月21日に訪問した東街道栗木の渡し栗木渡しとも)を紹介したい。先日紹介した鈎取の太子堂で二口街道と交わる小路(この道が東街道と思われる)を南下すると栗木橋に行き当たる。名取川に架かる栗木橋を渡ると名取市となる。画像では向かって左側が名取市側である。

1栗木橋

Google3D立体画像で鈎取の聖徳太子堂との位置関係を確認して頂きたい。これらの位置から言って、この道が東街道である可能性は高いと見ていいようだ。だとすれば古来から多くの役人や武人らがここを通ったのは間違いないようだ。みちのくに来たことがないとされる聖徳太子(実在したかどうかは疑問)が堂に祀られているのは、当時中央政権に従わなかった蝦夷への牽制(権威を見せつける)の意味合いが強いのではないだろうか?

2Google3D立体画像栗木の渡し

鈎取側(仙台側)のやや下流の私有地にこのような祠群(墓にも見える)があった。歴史書にも載っていないようで、旧道や渡しとの関りは不明である。或いは土地の古老にでも逢っていれば、有意義な情報を聞き出せたのかも知れない。

3祠群

これは名取側からのアングルである。名取川は阿武隈川と比べるとさほど大きな川でなかったものの、大雨で水嵩が増した際は旅人は足止めを食らったことであろう。名取老女の勧請で名取に熊野三社(熊野那智神社、熊野神社熊野本宮社)が出来た後には、お参りをする人で賑わったとされる。熊野神社界隈には、かつて宿坊があったが、資料によると鈎取側にも茶屋ががあったとされるが、往時は二つの街道が出遭う要衝の宿場として機能していたものと思われる。

4東側より

栗木橋が完成したのは昭和36年11月のことであった。それまで人々は渡し舟を利用していたという。今から60年以前は舟で二つの地域が結ばれていたことになる。中世の頃、奥州藤原軍が源頼朝軍に追われ、この川を渡って敗走を繰り返したこと(繰り引き返した)が、栗木という名の由来になっていると伝えられる。一方両軍の渡河ポイントについては、もっと下流(大野田や宮沢)であったという説もあり、明らかになっていない。

5昭和36年竣工

栗木橋は車が擦れ違うことが出来ないほど狭い橋だが、一方通行とはなっていない。通行は双方の譲り合いで成り立っている。

6南側より

栗木の渡しと熊野三社のうちの二社(熊野本宮社熊野神社)の位置をGoogle3D立体画像に落として見た。東街道との密接な関りがおわかり頂けるものと思う。

7熊野神社、栗木の渡しGoogle3D立体画像

横町コメント
4月21日は名取市の熊野本宮社熊野神社にも訪問し、写真を撮ってきました。この二社については後日紹介したいと考えております。これまで多くの時間と労力を費やしてきた東街道調べですが、今回の探訪を経て、いよいよ佳境に入ってきた気が致します。

後はほとぼりが冷めないうちに、執筆し作品の骨子を作りたいと考えています。肝は大きな流れを掴むことです。枝葉も大事ですが、なにせ随分と昔の話ですので、押さえるべき点をしっかりと押さえて東街道の実像に少しでも迫りたいと思います。

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8六百六十六横町

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