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初めに
私は現在、文芸誌「みちのく春秋」に掲載している『東街道をゆく』を執筆中だが、昨年の春から今年にかけて名取三社と言われる三つの由緒ある神社を訪れた。本日はそのことについて書きたい。

名取熊野三社の中ではで中心的存在。以前は熊野新宮社と呼ばれたが、明治以降熊野神社と改称された。祭神は速玉男尊、伊弉再尊、事解男尊、菊理姫神、ほかに4柱を祀り、東北地方屈指の熊野神社の一つとされる。古くから交通の要路にあたっていたため、南北朝以来、武家による種々の保護を与えられている。文治5年(1189年)には源頼朝が奥州合戦で戦勝祈願をしたとされる。頼朝は境内に松を植え、腰かけたとされる石が残っている。平安から中世に至る文書も残され、歴代の仙台藩主からも庇護を受け伊達家とは深い結びつきを持っている。かつては飛鳥宿と言われ十八の宿坊があったとされる。


私は今年の4月21日にこの神社を訪れたが、本殿の前にはこのような池がある。和歌山県の熊野本宮大社には行ったことがないが、池越しに見る本殿は圧巻である。源頼朝ゆかりの神社とあって三社の中でもひと際オーラを放っているという印象がある。


1熊野神社

熊野本宮社

熊野神社から北に約五百メートル。名取熊野三社の一社として保安元年(1120)に創建。源頼朝が奥州藤原征伐をする際、当社に武運を祈願し軍に赴き霊験あらたかな様を覚え、文治(1189)再び詣でて深く謝拝したと伝えられる。それ以来武家諸公の崇敬が篤く、永禄(1563)、奥州探題伊達晴宗より熊野本宮本殿屋根葺替がされ、庇護を受けている。万治元年(1658)に現社地に遷座。現本殿は元禄(1693)に建て替えられた。


この神社を訪れたのも今年の4月21日であった。この時は二人連れの女性がお参りに来ていた。熊野神社と比べると地味な印象だが、栗木の渡しにも近いので、渡し舟を降りた人々が次々に参拝をしたことだろう。


2本宮社本殿

熊野那智神社

熊野那智神社を訪れたのは昨年(2020年)の3月19日のことだった。伝説によると養老3年(719年)閖上の海底から引き上げられた神体を奉遷したとされる。引き上げた際、神体から発せられる光の止まる所が高舘山であったことから、そこに宮社を建て羽黒大権現として祀ったとされる。 その後、名取老女が熊野三社を勧請したことにより、那智の分霊を合祀して「熊野那智神社」と改称したとされる。立地や景観は紀州熊野の那智山に類似していると言われる。 


3熊野那智神社

標高203メートルの境内からは非常に見通しが利くが、高舘城が城として機能していた際は格好の見張り場所として機能していたであろうことが容易に考察される。文治5年(1189年)の奥州合戦で藤原軍が城(高舘城)を築いたとされる場所とは目と鼻の先である。画像の左下の山の辺りに高舘城が築かれたとされる。

熊野那智神社から高舘城を望む

Google3D立体画像で熊野三社の位置を確認して頂きたい。

4Google3D立体画像

名取三社の勧請には名取老女が大きく関わっている。名取老女の生涯について箇条に記して説明したい。以下は福島県伊達郡桑折町の「大聖寺縁起」より郷土史家の菅野照光氏が自著の『太白区の移り変わり 山・川・道ものがたり』に引用したものである。


・治暦5年:延久元年(1069年)名取郡志賀(現在の岩沼市志賀地区)に生誕する。熊野を深く信仰する。若年の頃から紀伊権現に帰依する。結婚前に「熊野権現牛王宝印」を受け、鳥居に祀り下余田に嫁ぐ。熊野三山には何度も足を運んだものと思われる。

・その後、老女より紀伊の本宮を名取に遷宮しようと平泉の藤原基衡に働きかけがあったと思われる。

・藤原官僚が天皇家に働きかけ、第74第鳥羽院皇帝は基衡に名取郡の神地を寄進させ、老女を迎えて名取熊野三社の造営が認められる。

・天仁元年(1108年)岩沼長岡の地に熊野社を奉遷する。更に社を下余田に、その後熊野堂に遷し祀ったとされる。

・保安4年(1123年)紀州熊野三山を迎え祀る。

・天治元年(1124年)、並びに文治元年(1126年)平泉の中尊寺で総供養が行われる。

・保延4年(1138年)老女70歳で没する。

・死後名取老女は、光を与えた人と伝わり、大日如来になったと言われる。 


下の画像は国立能楽堂の名取ノ老女である。


5国立能楽堂名取ノ老女

熊野那智神社仮宮と五方の辻碑

熊野那智神社仮宮(山の上にある熊野那智神社に行けない人向けの遥拝所)が熊野那智神社の参道入り口に位置している。赤い鳥居の脇に、五方の辻碑と言われる自然石の道標がある。この地は五つの古道が合流し分岐する要所にあたり、それぞれの行き先を示している。正面(東面)には道中の安全を祈る延命地蔵菩薩像と、享保1年(1771年)3月17日と刻まれている。 


鳥居の左の柱の付け根にあるのが、五方の辻碑である。


6仮宮大鳥居とお堂

横町コメント
先日、東街道の熊野堂地区の探訪を終え、これまでなかなか進まなかった熊野三社のことが見えて参りました。名取老女は一説には男性だったという説もあり、謎に満ちていますが、この土地にこのような素晴らしい神社を勧請したという実績は名取市民のみでなく、宮城県民の誇りとも言えます。

同時に文治の役(1189年に行われた源頼朝による東征)の様子も垣間見えてきた気が致します。東街道のあちこちに存在する歴史と文化の薫りに接することが出来た今回の探訪でした。これを執筆への追い風として、真摯に取り組んで行きたいと考えています。

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7六百横町
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