fc2ブログ
街道をゆく「神田界隈」
はし書き
昨日の3月17日、久しぶりに市民図書館(仙台メディアテーク)で司馬遼太郎の街道をゆくのNHK放送版(VHSビデオ)を鑑賞した。本日はその概要と感想などを述べたい。



司馬遼太郎が東京都千代田区神田界隈を訪ねたのは平成2年のことだった。探訪は一ツ橋に始まり、湯島聖堂、ニコライ堂の坂、神保町から神田駿河台と続いた。放送(VHSビデオ)では原作を端折り①物学びの町・神田の起源とも言える湯島聖堂の昌平坂学問所②明治時代の西洋文化の象徴・ニコライ堂③古本屋街と岩波書店創業者・岩波茂雄④大正デモクラシーを代表する評論家・長谷川如是閑について等が集約されている。



街道をゆく「神田界隈」放送版概要
①湯島聖堂の昌平坂学問所に宿る武士教育
近世から近代にかけて神田に多くの私塾が起こった。これは地理的な条件と密接な相関(藩政時代の神田は江戸城のすぐ傍であった)があったという。また、多数の武士が江戸に居住したため、必然的に彼らの勉学や武芸を育成する教育的機関が必要となった。幕府は、こうしたことを踏まえて、この地を整備した。徳川家康が伊達政宗に命じた神田御茶ノ水掘割の工事は有名である。この掘(神田川)によって湯島大地から続いていた台地が、地形的に大きく縁切りされるに至った。川によって給水がもたらされ、多くの住民が住む町としてのインフラが整備された。同時に、川の作り出す風情は茗渓(めいけい)などと称され、多くの絵師が描く対象となった。


武士を育成する機関として湯島聖堂は大きな役割を果たすに至った。湯島聖堂は徳川5代将軍・綱吉によって建てられ、その後昌平坂学問所として発展していった。構内には儒学の祖・孔子を祀る聖堂や教室などがあったが、関東大震災によって大部分が焼失し、現在は聖堂だけが再建されている。
孔子は理想的人格としての君子を君子人と呼び、「人は初めは常人であっても、学問を修めることで誰でも君子に成りうる」としている。武士道の基盤となるのが儒教であるが、司馬は「武士が武士になるための工夫の道(学問に励むこと)こそ江戸期の儒学だった」としている。



②ニコライ堂
駿河台のニコライ堂は今でも「東京復活大聖堂」として使われている。明治24年に建立されたニコライ堂は日本で初めて造られたビザンチン建築様式の大規模な教会として有名だが、今ではすっかり神田の街並みに溶け込んでいる。しかしその高さは十字架の先端まで35メートルあり、高層建築の少なかった明治の東京では文明の威容と受け取られたという。この建物の設計はロシア人だが、施工は英国人のジョサイア・コンドル(1852~1920)であった。コンドルは1877年の来日で工部大学校(現東大工学部)で建築を教えた人物とされる。コンドルは英国人なのでビザンチン建築様式の建物は不慣れで、細かい部分になると英国風のロマネスク風の装飾が入ったということもあったという。

③古本屋街と岩波書店創業者・岩波茂雄
司馬は神保町の古本屋街を世界一の古書街と評している。司馬が昭和59年に「箱根の坂」(北条早雲に関する歴史小説)を書く際に、この地区の老舗古本屋が依頼した資料集めに見事に対応したことを例に取り、この地区に集まる膨大な古書の膨大さ(毎日十万冊の古本が取引される)を紹介している。岩波書店(1913年創設)もこの神保町に開業した書店の一つである。

創業者の岩波茂雄(1881~1946)は、一代で創業出版社を立ち上げた人物である。放映版ではこの岩波茂雄の青年時代にまつわる逸話が紹介されている。それは彼の出身校である旧制一高の後輩の藤村操(1886~1903、ヨーロッパの個人主義に出遭い、人生や宇宙の真理を知ろうと苦悶し、日光華厳の滝に身を投げて自殺)に関する話である。司馬は、往時の知識青年にとってヨーロッパが如何に重い存在だったのかが判るとしている。

ここでは、岩波茂雄と夏目漱石の関わりも紹介されている。岩波茂雄は漱石の類希なる資質を見抜き、駆け出しの出版社にも関わらず「こころ」を自社で出版させてもらいたいと懇願したという。あまりの熱心さに漱石が心を動かし、出版を岩波に頼むようになったのである。漱石の作品「こころ」の出版が、同社にとって将来の大きな飛躍に繋がったと言えるのではないだろうか?

④評論家・長谷川是閑
明治政府は当初どんな国家を創っていいかわからなかった。司馬は、そんな時に「法体系を整備すれば自ずと国家が成立する」と唱えた知識人が居たのではないか?と言う。明治となって神田には、多くの私立の法律学校が創られたが、後に各界で国家を動かすことになる人物を輩出した。長谷川如是閑(1875~1969)も大正デモクラシーを代表する評論家である。東京法学院(中央大学の前身)を卒業した彼は93歳で没するまで、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行など、約3000本もの作品を著した。 

司馬は本郷が「学者の地」(多くの教育者を生み出す土地柄)とされるに対して、神田を「実学の地」(政治家、裁判官、弁護士、実業家、新聞記者などを生み出す土地柄)としている。これには江戸時代から続く気運が深く関わっているとしている。そんな長谷川も駆け出し時代は新聞記者だった。同じ新聞記者(サンケイ新聞)出身の司馬としては、親近と畏敬の両面を感じる存在が長谷川是閑ではないだろうか?
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
感想
ストーリーには全く関係ありませんが、街道をゆくの新シリーズは古屋和雄氏の朗読が素晴らしく、いつもながら司馬遼太郎が肉声で話しているのでは?という錯覚にさえ陥ります。これだけでこのシリーズを見ようというモチベーションがかなり高揚します。今回の東京の神田界隈は日本の中心部に位置しますが、このような歴史観をもってこの地を眺めることで、我が国の近代の出で立ちの一部がわかる気が致します。歴史はやはり大局的な観点に立って俯瞰することが大切で、この俯瞰によって人類が辿ろうとする方向性が朧気ながら垣間見えて参ります。点から線へ、線から面へと進み最後は立体性を帯びてくる。こうなってくるとその魅力から離れられないものとなります。


今回箇条書きで紹介した本作品はビデオでは概要と言えますが、著物の「神田界隈」からしてみれば、ほんの一部にしか過ぎません。興味のあるかたは是非、著作(文藝春秋発刊・司馬遼太郎全集第63巻)をお読み頂きたいと思います。ところで、郷土史でもないこのようなことを学んで何になるのか?と私に訪ねられるかたも居られるかも知りませんが、こうした地道なことを繰り返すことで、己の中の俯瞰の目を少しでも高い位置にもって行きたいという願望があるからに他なりません。その為には日々努力して昨日より少しでも前に進むことが肝心と認識しております。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)