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大河ドラマで実業家渋沢栄一を描いた「青天を衝け」が放送されているが、本日は恐らく今回の筋書きには登場しないと思われることを掲載したい。先ずは渋沢栄一について簡単に説明したい。埼玉の名主の長男として生まれた後に、一橋家に仕えて幕臣となり、パリ万国博覧会幕府使節団に加わって渡欧している。

維新後は大蔵省官吏を経て第一国立銀行など複数の会社の設立に参画し、実業界の指導的役割を果たした人物であった。彼の思想の中核となるのが論語を初めとした儒教である。私自身も論語を愛読しているので栄一の述べることはすんなりと耳に入ってくる。

1渋沢栄一

栄一が生涯信頼を寄せた実業家の一人に古河市兵衛がいる。古河市兵衛は京都の商家に生まれ、その後間もなく生家は没落したが小野組古河太郎左衛門の養子となった。その後足尾銅山などの多くの鉱山を経営し古河財閥の基礎を築いた人物である。

2古河市兵衛

古河グループはまだまだたくさんあるが代表的な企業のみを紹介する。横浜ゴム、富士通などの大企業が名を連ねる一大財閥である。

3古河グループ各社

養子に入った古河市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出したのは1877年(明治10年)のことであった。実は古河が養子に入った小野組は1874年(明治7年)に突然破産している。第一銀行を創立した渋沢栄一は小野組に対して百数十万円(現在の価値にして数億円)を貸し付けていた。その債務を背負うかに思われた第一銀行だったが、古河は小野組の倉庫にあった米穀と鉱山のすべてを第一銀行に提供したという。渋沢栄一はこの時の古河の姿勢を「無学ながら誠実な人物」と述べている。

その後古河は「奥羽で鉱山業を営みたいので資本となる金を貸して欲しい」と栄一に申し出ている。そんな経緯もあって栄一は古河を信用して5万円を貸し出した。その後、足尾銅山は古河市兵衛渋沢栄一と相馬家が共同出費して経営することになった。この時の相馬家の担当は元相馬家老を務めた志賀直道(文豪志賀直哉の祖父)であった。

※1895年当時の足尾銅山
4足尾銅山1895年

志賀家三代の顔ぶれをご覧頂きたい。直哉から見れば祖父と父が実業家ということになる。東京麻布の三河台の300坪の豪邸で少年期を過ごし、外国製の自転車を乗り回すというような裕福な生活を送った志賀直哉の経済的な基盤は、このようないきさつがあったのである。

5志賀三代

足尾銅山に絡む年譜をまとめてみた。鉱毒の流域にあたる渡良瀬川の鉱毒事件が社会問題になったのは1890年代に入ってからである。現代ならば大問題だが、往時は富国強兵が叫ばれていて、政府の腰は非常に重いものがあった。一生を鉱毒事件に生涯を捧げた田中正三造の存在もあり、この問題は1970年代まで裁判で争われることとなった。

若き志賀直哉は相馬家のやっていることが社会悪と思われ、父の直温に食ってかかった。飽くまでも、相馬家のためにビジネスに徹したい直温と正義感の強い直哉はやがて対立し、親子がいがみ合う確執に発展した。二人の間に挟まれる形となった祖父の直道は、この話が出ると終始無言であったという。鉱毒の為に多くの人が住む場所を奪われ、病気を発症して死んでゆく中で道義的責任を感じたのだろう。

このあたりの話は断片的に直哉の作品の『祖父』『山形』や『和解』にも登場する。このような背景を知ることで、一層興味深くストーリーが読めるものと私は考えている。

6年表

横町コメント
志賀直哉の作品に登場する古河なる人物が一体どんな人物であったのかを以前から知りたいと思っていました。大規模な公害を起こしたにも関わらず古河鉱業(株)が倒産しなかったのは、背後に国の政策があったからと受け止めています。そういう意味で時代背景が今とは全く異なる政策(一部の地域の公害より国益を重視)を感じます。

ちなみに直哉の祖父である直道は若年時には二宮尊徳(金次郎)に師事したと言われます。それだけに相馬のやっていることと、この事業が巻き起こした社会悪の間に挟まれ悩んだのではないでしょうか?自分は7年前の2014年9月に『志賀直哉と祖父直道の関係』と題した記事https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-1140.htmlを書きましたが、興味のあるかたは一読頂ければと考えています。

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7六百横町
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