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 J.S. Bach, Synfonia, Wir danken dir, Gott, BWV 29, Willem van Twillert, Hinsz-organ Kampen 
リンク曲について
本日は宗教音楽をリンクした。自分は無宗教だがJ.S.バッハのこの手の曲が好きである。聴いているだけで心が軽くなる曲だが、ここに宗教音楽の懐の広さがある。宗教も思想も人が悟る為の通過点に他ならない。では悟るとは一体何なのか?もし自分がそう聞かれたならば、「悟りは己の身の丈を知り、心を平穏に保つための一境地です」と応えることだろう。

答えになってないかも知れないが、自分がそれに納得すればそれでいい。自分は過去に「悟りは開かないほうがいいですよ」と面と向かってコメントに書き込まれたことがあったが、己の流儀に対して人にとやかく言われる筋合いもないと考えている。そのかたに申し上げる。「貴殿に悟りがないならそれでいい、但しそれを他人に押し付けるのは少し考えたほうがいい。悟りを開かなかったら今の自分は存在していない」と。

さて、リンク曲に戻りたい。聴き手がキリシタンならこの曲に宗教的な想いを重ねることだろう。今宵私はそんな選択肢は個人の主観に委ね、この曲の持ち味とも言える「懐の広さ」を心行くまで味わいたいのである。人間の一生等は一瞬の灯の如し。然らばその一瞬の輝きに感謝し、心穏やかに終局の日を迎えたい。自分はその為にも悟りは必要と考えるのである。J.S.バッハの生んだ名曲がパイプオルガンの演奏で再び日の目を浴びる。然らば自分は何も言うことがないのである。
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本日は三連休の後出勤したが、けして重苦しいものは何も感じなかった。これも週休三日(水・土日が休み)の恩恵と捉えている。だが、これはけして棚ボタではない。水曜が休みとなったのは、自らが所属する企業に主張して得られた処遇である。自分は仙台藩祖・伊達政宗公を心から尊敬しているが、彼の生き様とも言える「自力本願」は今の自分の座右の銘にもなっている。自分は自力本願を重視するがゆえに無宗教であり、無神論者を自認している。この心情は死ぬまで変わらないことだろう。

自分は自らの主張によりフレックス制の対象となった。本日はその特権を使って4時で会社をあがった。帰宅途中に買い物をして4時半前に匂当台公園の日時計の前に差し掛かった。花壇の花々も春の光に反応し徐々に色づいてきたようだ。これには大いなる感動を抱いた。「寒い冬をやり過ごし、無事に春を迎えられれば…」古来人類はそんな感動を何度味わってきたのだろう?極めて当たり前のことだが、そう考える時、昔人と自分の思いが寸分も違ってないことに気づくのである。

仙台市役所方面を望んでみた。昨年の12月は今の時間は真っ暗だった。それがこんなに明るい。さもないことだが、私はそのことに深い感銘を抱いた。

左:青葉区役所。右:宮城県庁。4時半前になっても、二つの庁舎は早春の青空に聳えている。

県道22号線と北二番町の交差点に差し掛かった。自分は仙台を愛しているが、過去に東京転勤から帰ってきた際に感じたのが言葉に言い尽くせない安堵感であった。それは自分がつくづくこの街が好きなんだと思った瞬間でもあった。

横町挨拶
こうしている間にも、刻一刻と春は近づいて参ります。それで若年時にこうした感動はなかった。然らば、自分も伊達に年を重ねたわけでないという情感さえ抱きます。春は何度迎えてもいい。それが本日の某の偽らざる心境にございます。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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