fc2ブログ
前書き
本日で震災から丸七年を迎えた。ここに尊い命を失ったかたがたに心から追悼の意を捧げたい。生き延びた自分がここにどんなことを書こうが軽くなる。亡くなったかたがたや遺族のかたがたには、何卒それをご容赦願いたい。それでも、ブロガーとしての自分に本日何ができるのかを問う時、唯一出来るのが震災にちなんだ記事を書く事である。こうした気持ちになれたのは7年というの歳月の為せる業だが、根底において今後、起こりうる震災の教訓の一助になれば幸いと考えている。

今、おつき合いをさせて頂いているブロ友様の約半分は当時の記事をご覧になっていないと踏まえ、敢えて本日は7年前の震災当日の私の行動を再度掲載したい。以前、但し単なるコピーではあまりにも能がないので、その記事とともに、作家・島尾敏雄(1917-1986)が執筆した『いなかぶり』(昭和初期の長閑な小高の風情を漂わせる自叙伝)も併せて掲載したい。両記事とも既にご覧になられたかたがたにおいては何卒お許し願いたい所存である。

ここは島尾敏雄の自叙伝『いなかぶり』の舞台になった場所(福島県南相馬市小高区村上海岸)である。この穏やかな海が8時間半後に黒く盛り上がった呪われた悪魔の海原となって、平和な常磐の漁村、農村を襲うとは誰が予想したのだろう…島尾少年がこの海で遊んだ頃から既に90近くが経過した…この日の太平洋は凪の部類に入るほど穏やかな表情を私に見せていた。しかし一見穏やかに見える海の表情の裏(海底地表深く)に得体の知れない何者かが潜んで隠れていた。そしてそれが一体何者かであるのかはこの時点では全く知る由もなかった。

※2011年3月11日、震災当日のAM6時半に横町が撮影


小説の舞台になって多少の脚光は浴びたことと思われるが、「いなかぶり」の文字通り、田舎特有のゆったりと時間が流れる雰囲気がこの海岸の素晴らしさでもある。小説の舞台は島尾少年が10歳くらいの頃ゆえ、1927年(昭和2年)前後と思われる。当時東京に住んでいた島尾少年は祖母の居る福島の小高で過ごすことが多かったようである。この年の夏も彼は村上集落と南側の角部内(ツノボウチ)集落の間に存在する村上海岸を祖母とともに海水浴のために毎日のように訪れていた。島尾少年は小高市街につながる道を彼は祖母に遅れてついて帰路に着くのが日課だった。

※以下本文より抜粋
…そこははたて(断崖)であった。小さな丘が海の真上でぶち切れていた。丘の鼻は日に日に風雨や波濤に至食され、真新しい崖肌をあらわにして、そそけだっていた…帰途の道は長い。防波堤のかげの陽だまりに寄り合った竹垣の多いほし魚くさい村上部落を通り抜けて土橋を一つ渡ると、見渡す限りのたんぼが、阿武隈山脈の山のふところあたりまで続いているのが眺められる。青くさい稲の匂いがむんむんしている。

はるかのかなたに鉄道線路(※注釈:常磐線を示す)の土手が視界を左右に走っていて、その線路にからみあって見える集落やシグナルや陸橋のある停車場の構え、そこに起点を置いている街のたたずまいとその屋根屋根、煉瓦工場の煙突などが、青稲の波のそよぎの向こうのほうに、平べったく、耳の遠鳴りに似たはるけさで置かれてある。思無邪(しむや:主人公の少年)はそのあたりまで、歩いて帰らねばならない。…

※大津波に襲われる日の朝に撮影した南相馬市小高区の村上集落(横町が撮影)


思無邪は祖母とともに危うく波にさらわれそうになった。ここで先に難所のはたてを通過した思無邪は足腰の弱った祖母の手を引こうとしたが、未熟な彼にはそれができなかった。結局二人とも無事にはたてを渡って村上海岸に行き着くことができたが、思無邪には心の葛藤(祖母をじれったく思う気持ちと手を貸してあげたい気持ちへの後悔)があった。そして午後の村上海岸はいつものようになにごとも無かったように真夏の陽光を二人に投げかけた…
好奇心旺盛な思無邪にとっては、小川の魚、水生昆虫、草花興味の的であった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
そしてついに運命の日
2011年3月11日金曜日、この日私は福島第一原発の中で仕事をしていた。いつものようにサイト内の建設現場では一日の作業が始まり、多くの職方が来て慌しく作業に追われていた。あと一週間もすれば今の仕事を無事に終えて仙台に帰れる…そんな考えを頭に据え、私はその問題の時間(午後2時46分)を迎えようとしていた。一回目の余震はそんなに大きくもなくあまり気に止めなかった。そしてあまり時間を経ないでついにその瞬間となった。

「プルルップルルップルルッ!プルルップルルップルルッ!」突然机の上に置いた携帯電話の地震予告音が、けたたましく鳴った。聞いたこともない不気味な音だった。複数の者が間もなく地震が来るぞ!」と大声で叫んだ。そして間髪を入れずに横揺れが来た。このとき現場事務所で私の脇にいた人は来訪者と打合わせをしており、かなり揺れているのになかなか話すことを止めなかった。誰かから、「打ち合わせどころでないぞ!」と怒号が飛んだ。更に、15秒くらいするとその揺れが尋常でないのは誰の目にもあきらかなものとなった。折りたたみテーブルやイスが一斉にスライドし狂ったように踊り始めた。周囲に何もない場所にいた者はほぼ全員がしゃがみこんだ。壁など掴まるものが周囲にあった者は全員が掴まろうとした。やがてそれは車のギアチェンジのように何段階も経た複合的な激しい揺れに発展していった。「キャー!」女性からは悲鳴があがった。それは私が生涯体験した中で最も凶悪な揺れだった。巨大なエネルギーの放出による破壊力にはまるで地底の神が怒り狂った或いは悪魔のたくらみのような作為さえ感じた。

工事サイトの地面には雲の巣のように亀裂が入り、作ったばかりの建物の基礎や土間にひびが入った。この日はコンクリートの打設日だったので職人気質の左官工は揺れが納まってからも土間を仕上げていた。足場の上にいた板金工は身の危険を感じ、安全帯を足場から外して飛び降りてもいいように身がまえ、足場と共に倒れるのを防いだ。引き渡しを前にした建物と足場が激しくぶつかった。地震の次は津波が心配だった。「ここは津波は大丈夫なんですか?」の私の問いにベテランの職工さんが自信ありげに落ち着いてこう言い切った。「大丈夫、ここは結構海抜が高いので津波はきません。」と。その後発注者側から避難指示が出たがその時既に福島第一原発の原子炉建て屋に十メートルを越す津波が襲い、大きなダメージを受けてたのだが、これは翌日のニュースで知ったことである。避難指示が出てから、私は職場の安全を確認して現場を離れた。

その後は大動脈の国道6号線を始め主要道路のほとんどが寸断され、脇道(田舎道)社有車でさまよい歩くはめになる。原発を出てから、家族のことが急に心配になり仙台に戻ろうと思った。しかし、それを妨げるかのように原発の前の国道6号線の仙台方面行きは、所々がカラーコーンで閉鎖(乗用車1台が通れるスペースを除いて)されていた。ラジオ以外は情報がなかった閉鎖された理由る術さえなかった。少し後になって国道に入った著しいひび割れによるものであることが判明)私はやむなくいわき方面に向かった。いわきに向かったもう一つの理由は震源が三陸沖、宮城県沖と聞いていたので、少しでも震源から遠のけば被害も少ないだろうということだった。しかし、パトカー、消防車、救急車が頻繁に6号線を行き違い、周辺町役場からは臨時の災害放送が流れていた。あまりにも周囲の様子がおかしい…、どう見ても事態が深刻でせっぱつまっている様子がありありと伺えるのである。

「こういうときはへたに動くと危ない。」そう考えた私は隣町の富岡町のパチンコ店の駐車場で体力温存のために車中ビパークしようと考えた。駐車場でしばらくじっとしていると、ホンダに乗った若者が血相を変えて猛スピードで海側から車を飛ばしてきた。しかしその飛ばしてきた理由がなんなのかすぐには理解できなかった。その駐車場で偶然宮城ナンバーの軽自動車に乗った男性と一緒になった。こちらから話しかけると彼は家が南三陸町にあり「ラジオで情報を聞いていたら南三陸町が津波で大変なことになっている。」と不安そうに話した。この時ホンダに乗った若者が必死の形相で飛ばしてきた理由がやっとわかった。広範囲に渡る大津波が東北の沿岸を襲ったのだ。

夕闇が迫り少し暗くなってから、家族のことが急に心配になってきた。自分の家は山の手のほうで津波の心配はなかったが、地震そのものによる被害や火事が心配だった。「こうしてはいられない。仙台に帰ろう。」ここから私の迷ていが始まった。国道6号線にできた段差はひどいもので20センチから30センチに及ぶものもあり、何度も車の下回りをぶつけたり、こすりながら前に進むしかなかった。

「一体この先でなにが起きているのだろう?」休んでは走り、しばらく走っては休み、私の車での迷てい俳諧は深夜1時過ぎまで及んだ。しばらくはくねくねした内陸路を縦横に走り、町場では渋滞にもつかまった。「こんな時間にしかもこんな田舎で渋滞なんて一体どうなってるんだ?」この時、沿道の古い日本家屋の多くはつぶれており、町行く人の顔はみなひきつっていた。電気の全くない真っ暗闇の中、うねった道を車で走るには細心の注意が必要だった。道路のひび割れにタイヤを落としはしないか?陥没した道が車の通行によって更に沈まないか?車を路肩や水たまりに落とさないか?…そして悪戦苦闘の末、日付が変わったころに私は南相馬市小高区あたりまでなんとかたどりついた。

「ここまでくれば国道6号線を走れるかもしれない…」そう考えた私は内陸から海側に向けて車を走らせた。まばらな家が立ち並ぶ住宅地に来た時、景色が一変した。泥水で道路が茶色になっていた。私は「地震で水道管が破裂したんだろう…」くらいに考えて更に先に突き進んだ。ここで恐ろしい景色を目にすることになる。根元から折れまがった電柱、道路一面のへどろ、横転して運転席をひきちぎられた大型トラックの無残な残骸、不気味に暗闇に浮かぶ住宅跡らしき基礎、閉鎖され大幅に変形したコンビニ店舗…あまりの変わりようにこの道がいつも通っている6号線だと気づくまで少し時間がかかったのだ。

しかしエネオス石油の看板を見たとき、ここが6号線に間違いないと直感した。私は恐ろしい津波の爪痕を見ながら、今来た海水にまみれたヘドロだらけの道をひき返し、午前1時15分ころに停電している南相馬の宿マルマンビレッジ(やや標高が高く津波に浸かっていなかった)になんとかたどり着いた。

赤:福島第一原発(双葉郡大熊町)
オレンジ:震災当日の朝写真を撮影した村上海岸(南相馬市小高区)
黄色:私が宿泊していたマルマンビレッジ(南相馬市原町区)



命の危機に瀕したせいだろう。停電のため暖房がなく真っ暗で寒い宿の一室で私は異常なほど興奮していた。不気味な余震は一晩中続いたが、最も怖いのはこの宿まで津波が上がってくることだった。ゴーーッ暗闇の中で不気味な音が聞こえる。余震の音か津波の音なのか聞き分けすらできない。

「くそっ、こんなことで死んでたまるか。気を強く持ってやる!」明け方まではあまり時間がなかったが私は孤独で不安な一夜を明かした孤独な暗闇の中で私の高ぶった気持ちを沈めてくれたのはポルトガル国歌の一小節「偉大なる先祖の声を聞け。」という言葉だった。その時、私の耳には先祖の声がかすかに聞こえていた。その声は私にこうささやいた。「ここなら絶対大丈夫だ。明日に備えて体力を蓄えろ。」と

翌日の12日早朝陸路(丸森ルート)を経て、半日がかりで帰路に着いた。仙台バイパスは避難や食糧などの買い出しで渋滞がひどかった。家に帰り、家族の無事を確認して落ち着きを取り戻したが、一歩間違えば道路の段差や津波のヘドロにはまりそうで、命掛けの帰還になった。後日になってわかったことだが、実は震災が起きた日に別な場所で、社員の一人が慌てて家に戻る途中で津波に遭い、車外に脱出して危ういところで助かった。

私の苦心談はその助かったかたと比べたら、大したこともなかったようにして片付けられた。それだけ、その社員の出来事は大きかったのである。但し自分も震災当日の夜、走る場所と泊まる場所を誤っていたら、危なかったのである。その夜不安で仕方のなかった自分を勇気付けてくれたのが先祖の存在であった。これには今でも不思議な気がしているのである。最後にもう一度震災の犠牲になったかたがたに申し上げたい。「どうか安らかに眠り、現世の私たちを見守ってください。」
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)