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本日、私は太白区茂ヶ崎地区を訪ねた。目的は藩政時代に造られた杉土手の東のセクションを確認する為である。事前に入念な下調べを行った後に出かけた。画像は黄檗宗大年寺の惣門である。石段を下った先(南側)には門前町が拓け、往時の面影を現代に残している。大年寺には仙台藩主の廟所があるが、拙ブログでも何度か紹介したことがあった。

以下:大年寺ホームページより引用
両足山大年寺
元禄年(1696年11月、第四代仙台藩主伊達綱村公が鍬入れの式を行って茂ケ崎の地を拓き、宮城郡若林にあった廃寺小蓬山仙英寺の遺址を此処に移して新たに堂塔を建設し、両足山大年寺と號した。翌年の元禄10年(1697年)、下総國向島弘福寺普應鐡牛和尚を請うて開山始祖とする。歴代住職は開山の鐡牛和尚から数え現代で33代である。

1大年寺惣門

元禄から宝永、正徳、享保に至る四代伊達綱村公から五代吉村公の時代が寺が最も隆盛を極めた時代で、二十塔院が開基されたが、安永から幕末にかけて残存していたのは十八塔院である。何れも明治維新後に藩の庇護を失い唯一の遺構である惣門を残し廃寺となる。 

惣門は、五つの切妻屋根を有し、外観的には高麗門の形式を左右に複雑にしたもので、建築年代は享保元年(1716年)と推測される。門前方には、皷山道霑筆の「東桑法窟」(日本の東の仏法の中心であるという意味)の額を掲げ、昭和60年には仙台市指定文化財となる。

惣門の前に設置された立札には享保19年(1734年)に描かれた大年寺の絵図がある。その絵図に描かれているのが杉土手である。

2享保19年大年寺絵図

杉土手が残っているのは惣門の東とされるが、私は確認の意味で西側にも土手が残っていないかどうかを調べた。50メートルほど進むとこのような杉の大木があったが、地形的には急斜面に造られた山道のようで、土手には見えなかった。

3西側の土手は確認できず

木々の途切れた所々からは太白区の市街地が望める。

4太白区市街地

惣門の内側から東側を望んだ画像である。正面の低い石積みを越えて行けば杉土手があるはずである。

5惣門東

Google3D立体画像で杉土手の位置を確認して頂きたい。黄色の破線が本日土手を確認できたセクション、赤は土手の位置を想定したものである。(資料を参考に横町が作成)

6Google3D立体画像

或るブログで事前に確認していたが、土手は大年寺の墓地内にあるようだ。右側の林が杉土手である。

以下:仙台市教育委員会文化財課HPより引用


杉土手は市の南部にあり大年寺山の南西麓にある。鹿除土手(ししよけどて)とも呼ばれシシ(いのしし:猪、かのしし:鹿)の害から田畑や宅地を守るために江戸時代に築かれた土手である。仙台の鹿除土手は仙台城を囲むかのように青葉山丘陵の北と南の2箇所で確認されている。北方の土手は青葉区下愛子の丘陵麓にあり南方の土手が杉土手と称されている。


南方の土手の上には杉の木が植えられていたため杉土手と呼ばれたものと考えられる。杉土手は現存している部分は少ないものの山田地区と西多賀大谷地大年寺惣門東側では保存状態が良好である。絵図などの資料から東西約6.4㎞に渡って名取川から広瀬川までの丘陵麓に築かれていたと推定される。


西端は山田本町付近で山田字杉土手の地名が残っている。土手はここから市道鹿野人来田線(旧国道286号線)の北側に沿って東に延びており大年寺山南東端の根岸交差点付近で北に折れ愛宕山近くの大窪谷地まで続いていた。明治9年(1876)の地籍図では根岸交差点から大窪谷地までの地名は「鹿除土手囲1番」とある。


発掘調査は昭和61年(1986年)・平成3年(1991年)・平成8年・平成18年に仙台市教育委員会によって行われその結果土手には2回の補修の痕跡が確認されている。山田地区で現存する土手の規模は旧期が高さ約1.8m、幅約3.5m、新期が高さ約2m幅約6mである。法面の角度はシシのいる山側が急である。杉土手の構築時期については諸説あるが江戸時代中期以前と推定されている。なお『仙台藩家臣録』などの文献から第2代藩主伊達忠宗治世の明暦2年(1656年)以前に構築された可能性が指摘されている。


この説が本当ならば大年寺が造営される前に土手が存在したことになる。


7右の林

墓地の東に隣接する林の中の獣道を70メートルほど進んだがこの辺が限界のようだ。大変残念ながら、これ以上は行けないと判断し引き返すことにした。御覧の通り杉の木はあったが、いずれも若木のようである。地形的にも盛り上がっておらず、ただの斜面にしか見えない。この辺まで来ると土手跡とは言えないのかも知れない。

8東側打ち切り

墓地の一番標高の高い部分に上がって、杉土手を見下ろしてみた。こちらが西側である。

9高所から1

こちらは東側である。

10高所から2

山田市民センターに掲げられた杉土手の想定図をご覧頂きたい。この後で折り返しのセクションも調べたが、残存しているのはこの3セクションのみのようだ。Cセクションが本日訪れた大年寺惣門東(茂ヶ崎地区)、Aセクション(山田地区)とBセクション(西多賀大谷地地区)は既に取材済みである。

11杉土手拡大図色付き

横町コメント
藩政時代の初期に、獣による農作物の被害を防ぐ目的で造られた杉土手は、全長で6.4キロにも及びますが、今でもこうして確認できることに、感慨深いものを感じます。第2代藩主伊達忠宗治世以前に構築された可能性が指摘されているということですが、果たして仙台藩祖伊達政宗も関わったのかどうかは謎です。司馬遼太郎は自著「街道をゆく 仙台~石巻編」(1985年取材)の中で、仙台藩のことを’巨大な米穀商’と例えましたが、往時の仙台藩は全国有数の米どころでもありました。農業は藩の生命線とも言えるだけに、それだけ藩は真剣に農民を大事にしたと言える気が致します。

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12七百横町
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