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本日の午後、私は宮城野区の史跡の探訪に向かった。目的地は国分氏の家臣である逸見丹波が1394年頃居住したとされる小鶴城跡である。すぐ近くを東街道が通っていることから、現在執筆に取り組んでいる歴史作品『東街道をゆく』の一拠点として、この城跡を外すことができないと踏んだからである。参考にした資料は郷土史家の紫桃正隆(1921~2008)著『仙台領内古城・館 第三巻』(宮城県中央部)である。

私はこれまで随分と紫桃氏の著作には助けられた。彼はこの著作を1972年~74年にかけて発表したので、取材した時期は60年代~70年代にかけてと思われる。その頃から既に50年近く経過しているので、史跡の周囲では大幅な改変が行われている。

彼は岩手の旧伊達領~宮城県南部に至るまで、約1400箇所という気が遠くなるような城跡・館跡を調査しているが、この著作は労作というだけでは明らかに役不足であり、自分は大著と言っても言い過ぎでないと考えている。彼の言葉で最も印象深いものは、「自分が調べきれなかったことを後学に託したい」と述べていることである。

その後学の一人こそが自分であり、取材の度に、彼の血がにじむような努力に敬服するとともに、連綿と郷土史を繋ぐ鎖の一片として少しでも、彼の高い志に報いたいと思うのである。さて『仙台領内古城・館 第三巻』をご覧頂きたい。赤が東街道である。小鶴城跡との離れは300メートルほどである。

1色付け近辺の城

この4車線の立派な道路ができたのは昭和後期~平成の初期頃にかけてと思うが、紫桃氏が取材した往時はこの道路は存在せず、周囲には田園が広がり、仙台市でも郊外の趣を感じさせるような土地柄であった。それだけに、現在の住宅地とはまったく異なる趣と言えたのではないだろうか?正面の小高いところが小鶴城の本丸のあったところである。

2正面が小鶴城

Google3D立体画像で小鶴城跡の凡その位置を確認して頂きたい。『仙台領内古城・館 第三巻』を参考にして、なるべく忠実に描いてみた。紫桃氏は小鶴城の規模を東西200メートル、南北100メートルとしているが、自然丘陵を基にした連邦式平山城形式とし、築造された時期については室町期に遡るとしている。

小鶴沼は江戸時代前期の正保2年(1644年)に幕府に提出した絵図で、その存在が見て取れるのであるが、15年後の明暦年間では消失し田圃となっている。まさに郷土史では幻の沼である。紫桃氏がその沼の位置までスケッチしているのには甚だ驚いた次第である。この城が造られた室町期~江戸時代初期にかけて、周囲には湿地が広がり、南部には大きな沼(幕府に提出した正保2年の絵図には「長、九町。横、三町。深、五尺」とある)があった。今の寸法に換算すれば長さが1キロ近くに及び、幅が300メートル以上もあったことになる。

この地の大半は湿地を埋め立てたものであるが、先の震災時に起きた地盤の陥没の状態を見ると、その理由がよくわかる気がする。

3Google3D立体画像

紫桃氏の描いたスケッチをご覧頂きたい。往時はもちろんアナログ全盛時代だが、几帳面な性格が顕著に表れたスケッチである。彼は学者ではないので推定も入っているが、この城の概要を掴むには最適な資料と考えている。

4詳細配置図

今昔マップの明治40年測量の地図をご覧頂きたい。堀がわかりやすいように水色に塗ってみた。現在の公園の位置とほぼ一致するようだ。赤線は現在道路となっている所である。黄色い線が東街道である。

明治40年地図

4車線の道路をどこまでも真っすぐに進むとこのような景観となる。左側が本丸のあった辺りである。紫桃氏が調査した当時、あったとされる熊野神社や地蔵堂は残念ながら存在しないようだ。

5本丸界隈

住宅地の中を南から北へ、クランク状に通って北側に抜けてみた。仙台市教育委員会の立てた標柱が公園の脇に立っている。住宅が建っているところ(紫桃氏が二の丸のあったところとしている地点)との高低差は目視で7~8メートルほどである。

6小鶴城立札

段差には擁壁が設置されているが、一箇所だけ土手のままになった地点があった。往時の地形を偲べる貴重な場所である。

7唯一残る土手

紫桃氏の描いた断面図によると、熊野神社のあった場所と高低差は20メートルとしているが、今はどうみても7~8メートルほどしかない。恐らく宅地造成工事で削り取られたものと察している。

8断面図

紫桃氏が訪れた半世紀前とは多くのものが変わってしまったが、この小鶴南部公民館だけは現存しているようだ。昭和期の建物ゆえ、改装はされたようだが大どころにおいて変わってないようだ。

9公民館

横町コメント
インターネットで小鶴城跡を調べたところ、仙台市教育委員会の発掘調査以外に詳しい資料はヒットしませんでした。その理由として、付近が住宅地となり大規模な土地の改変が進み、現地に行ってもほとんど往時の面影を見い出せないということがあるようです。それでも、自分は今回の取材に特別な意義を感じて臨みました。

それは紫桃氏の尽力に少しでも報いたいという気持ちです。自分がブログに掲載することで、デジタル上に足掛かりを残し、数年後、十数年後、或いは数十年後に誰かの参考になれば、それで十分と考えたからです。

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10七百横町
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