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前書き

我が国は東アジアの小さな島国にあって儒教国家と言われる。我が国の武家社会に根付いた儒学を大きく二つに分けると朱子学と陽明学になる。今回紹介する熊澤蕃山(1619~1691)は師匠の中江藤樹の思想を継いだ反骨の陽明学者である。幕府の批判をしたがゆえに、晩年には幽閉されてしまうものの、死後は藤田東湖山田方谷吉田松陰などにも影響を与えたとも言われる。


また、勝海舟は蕃山のことを「儒服を着た英雄」と述べている。今回は死後百数十年を経て、幕末の思想家に大きな影響を与えた蕃山の足跡と思想をたどってみたい。今回参考にした文献は①疋田啓佑著『儒者』、②岡田俊裕著『日本地理学人物事典』である。


1熊澤蕃山肖像画

熊澤蕃山年表

・元和5年(1619年)浪人野尻一利の子供として京都に生まれる。

・8歳の時に水戸に移り母方の祖父である熊澤守久の養子となる。

・16歳の時、岡山藩主・池田光政の小姓として仕える。光政の参勤に伴い江戸に赴く。

・19際(寛永14年:1637年)に島原の乱が起きると、勝手に自分で前髪を切って元服し従軍に備える。

・20歳で己の未熟さ(勝手に元服して持ち場を離れた)を自覚し、お役御免を申し出る。その後近江国の祖母の実家に身を寄せ、父のもとで兵学などを学ぶ。この頃から朱子を読む。

・22歳の時、四書に触れて感銘を受ける。

・23歳(寛永18年:1641年)儒者中江藤樹に入門を許され『孝経』『大学』『中庸』を学ぶ。

・24歳(寛永19年:1642年)実家の生計を立てる為に、止むなく家族のもとに帰る。以後4年間、貧困の中で王陽明(1472~1528)の著物などを読む。

・27歳(正保2年:1645年)、再び池田光政に仕える。その後光政の参勤に伴い、江戸に赴き多くの大名や旗本と関わる。

・32歳(慶安3年:1650年)には知行地を岡山の和気郡に与えられ、藩政への参画が本格化する。この年、最初の著作となる『大和西銘』(洪水防止の観点から河川の流路周辺や水源の山の森林の伐採をするべきでないと主張)を刊行。これは師匠の中江藤樹から伝え聞いた「水土の地理」を知ることの重要性の認識が大きかったとされる。また張載(北栄の朱子学者、1020~1077)の『西銘』『正蒙』による「万物一体」の思考の感化も執筆の動機になったものと思われる。

・36歳(承応1654年)備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。 また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。

・39歳(明暦3年:1657年)幕府や藩の反対勢力の圧力で職を辞する。知行地の和気郡に隠棲を余儀なくされる。

・40歳(万治元年:1658年)京都に移り私塾を開く。

・42歳(万治3年:1660年)豊後国竹田地方に招かれ民生指導を行う。

・43歳(寛文元年:1661年)京都に居を移すと多数の公家、武士、町人から師事される。

・49歳(寛文7年:1667年)京を追われ、各地を転々とする。

・51歳(寛文9年:1669年)明石藩松平信之のもと身を寄せる。明石藩では著述に専念する。

・54歳(寛文12年:1672年)『集義和書』を刊行する。

・61歳(延宝7年:1679年)『集義外書』(山、川、森のありようを広い視点で捉え、水源涵義を保護、維持する中で産業発展がどうあるべきかを著述)を著す。

・68歳(貞享3年:1686年)最後の著述となる『大学惑問』(独自の政治経済論)を著す。そのご幕府の命令で下総国の古河藩主(松平信之)預かりの身となる。

・73歳(元禄4年:1691年)古河城にて逝去。


熊澤蕃山に関する逸話など

蕃山が23歳で師匠の中江藤樹から師事を許された際、藤樹はなかなか入門を許さず、蕃山は熱意を示す為に、軒先で二晩粘ったとされる。最後は藤樹の母の説得でようやく入門を許された。昔の師弟関係でこのようなことは多く見られたが、陽明学では知行合一(知と行は同じ心の良知から発する作用であり分離不能) を重んじることで、藤樹は蕃山の意気込みが本気であるかどうかを探ったのだはないだろうか?岡山藩主の池田光政は蕃山の才能と徳に着目し、27歳の蕃山を改めて士分として登用した。その後蕃山は光政の信任を更に得て33歳時には番頭(筆頭家老の格式)に任命している。光政は単に蕃山を藩の教育役としてのみでなく、政治面における才知も求めたようだ。


但し、蕃山の異例の出世振りをよく思わなかった重臣も多く、彼は古参の藩士たちの強い風当たりを受けることになる。また学問の上では、陽明学を説く蕃山対して幕府の官学である朱子学者たちから猛烈な批判を受けることになった。幕藩体制に入り、まだ改革という手法が馴染んでない時勢もあり、蕃山は時に隠棲を余儀なくされたようだ。蕃山は「国の本は民であり、民の本は食である」とし、農業の安定を第一に考えたという。このあたりには、後に世に出た二宮金次郎とも似たものを感じるが、蕃山は武士の在りようにも踏み込んでおり、武士の贅沢を戒め、禄を減らすことをも示唆したとされる。そのようなこともあって、彼は多くの武士たちを敵に回したようだ。


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横町コメント

熊澤蕃山は藩政時代初期の旧態依然とした体制にメスを入れた人物でした。往時は身分が物を言った時代なので、父が浪人出身ということも響いたのかも知れません。それでも岡山藩主の池田光政は彼の徳と才能を見抜き、筆頭家老格に登用しました。彼の師匠である中江藤樹我が国の陽明学の祖とも言われますが、熊澤蕃山のみならず陽明学を思想とする人物の多くは不遇な人生を送った気がします。幕末で言えば吉田松陰や西郷隆盛、長岡藩士の河井継之助などです。それでも彼らは我が身を犠牲にして、近代日本の到来に貢献しました。啓蒙思想の多くは黎明期において世に受け入れられません。陽明学もその例に漏れないものでした。


蕃山は師匠である中江藤樹の想いを身を以って後世に遺そうとしたに違いありません。我が国はよく民度が高いと言われますが、その根源に居座るのが儒教思想です。儒教の核となるのが「自分の為よりも人の為」です。自由主義、個人主義思想の台頭で国民の倫理観が落ちてき感のある我が国ですが、過去にはこのような優れた思想家が居りました。もっと時代を遡るのならば、安土桃山時代において、スペインやポルトガルが、我が国の植民地化を諦めた大きな理由が武士による武装国家でした。言うまでもなく、武士の思想の要となるのが儒教(往時は朱子学が主流)です。


そう考えると、我が国の歴史は世界に誇れるものと言っていいのではないでしょうか?最後に蕃山の印象的な言葉を紹介して皆さんとお別れした所存です。「人が見て良いとしても神が見て良くないことはするべきでない。人が見て悪いと思ったことでも、天が見て良いとなれば行うべきである」おわかり頂けましたでしょうか?これが陽明学の思考の特徴です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。

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