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  ミス仙台  二葉あき子  


リンク曲について
「ミス仙台」は昭和初期にヒットした仙台ゆかりの流行歌(ご当地ソング)である。1936年昭和11年)に西條八十が作詞し、古関裕而が作曲した歌で仙台小唄とも言われる。二葉あき子(当時21歳)の歌唱がヒットし、戦中・戦後は青春の歌として会合や酒宴でよく歌われたという。現代の感覚からは考えられない歌い回しだが、二葉あき子の美貌も手伝い、一世を風靡したのではないだろうか?ミス仙台が誰なのか気になるが、イメージとしてはミス仙台と二葉あき子を重ねたのではないだろうか?

時が過ぎ、昭和後期近づくと島倉千代子がこの歌を歌った。この歌が生え抜き仙台人にどれだけの影響をもたらしたのか?想像に難くないものを感じる。東北一の歓楽街と言われる国分町だが、昭和期~平成期にかけては多くの御仁がカラオケでこの歌に親しみ、仙台の魅力を肌で感じたに違いない。

哀愁を帯びたメロディーに古き良き時代の仙台を重ねる。古くは魯迅、島崎藤村、阿部次郎らが一時期この都に住んだ。仙台ゆかりの文化人各位が仙台に住んだ頃の七夕が一体どんなものであったのか?今となっては知る由もないが、仙台七夕の起源に迫る時、或る大御所にたどり着く。その大御所とはもちろん仙台藩祖・伊達政宗公である。

文武両道に秀で和歌の才能にも恵まれた政宗公は七夕にちなんだ句を八首詠んでいる。その中の一句を紹介したい。「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」ロマンチストでもあった政宗公はこの時、自らが開いた千臺(命名は仙台ではなくこの字が使われたと聞いています)の地を流れる広瀬川をあまの川に見立てたのだろうか?

政宗公が七夕を奨励した理由として女子に対しての文化の向上があったとも言われるが、彼が為したことの多くが、仙台の町起こしであり、藩の経済の振興であったに違いない。天下は取れなかったものの、いつしか仙台を誰もが羨む都にしてみせる…自分はそんな政宗公の想いが痛いほどわかるのである。

今から十数年前の自分は仕事の都合で仙台を離れ東京に住んだが、東京という大都会にはどうしても馴染めなかった。自分の器が小さかったせいもあってか、あまりにも大き過ぎて捉えどころがないのである。その点、我が仙台は大き過ぎず、かと言って小さ過ぎない。都心部は利便性に富み、市街地から少離れれば、豊かな自然が待っているのである。杜の都と言われるだけあって都心部には多くの街路樹が存在し、四季折々の表情を投げかけ、我々の心に潤いをもたらしてくれる。

住めば都というが、これは太平洋側気候の恩恵を受けた中都市・仙台に住んだ者にしか理解できないことなのかも知れない。仙台は全国の都市の中で住みたい場所のアンケートで、常に上位に入っている。或いは魯迅、島崎藤村、阿部次郎らもそのように感じたのかも知れない。

1昔の仙台

例年なら仙台七夕は多くの集客効果のある祭りで、延べ人数で言えば一日当り八十数万人、三日間で二百数十万の人出は下らないという。だが、今年運悪くコロナ禍の中にある。私本日の出勤時、そようなことを考え、一番町を南に向かった。広瀬通を過ぎ全天候型アーケードに達すると、街の名はぶらんど~む一番町となる。

2ぶらんど~む

ぶらんど~む一番町の七夕飾りに際して、強い印象を受けた飾りを紹介したい。この飾りは平安時代の貴族の有様を良く表しているのではないだろうか?

3平安時代風

この辺りカフェひしめいている。サンマルクカフェやカフェ・ベローチェ、ドトールコーヒーショップなどである。

4カフェの界隈

現在、私は旧道である東街道に関する作品文芸誌寄せているが、題材の元が安藤広重の作品ともなれば、非常気になる。

5東海道五十三次

それだけに、往時の道の在りよう描いた安藤広重の「東海道五十三次」見ると、心惹かれもの感じる。

6東海道五十三次絵柄

朝早い時間ということもあって、ぶらんど~む一番町の人通りは少ない;

7彦星の会えぬつらさが身にいみる

横町コメント
せっかくの仙台七夕ですが、今年は開催されたものの、大幅な規模の縮傾向は否めません。それでも、飾りつけを企画したかた各位のこだわりを強く感じました。ベテランに敬意を表するとともに、明日の仙台を背負う若い力の台頭を温かく見守って行きたいと考えています。今宵は仙台七夕初日を迎え、思うことがあって敢えて古い流行歌をリンクしてみました。

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8六百横町
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