fc2ブログ
初めに

私は去る7月末に宮城野区に位置する小鶴城跡を訪ねたが、本日は中世の頃、この城で行われた豪族同士の合戦について述べたい。参考にした資料は平成5年発行の紫桃正隆著、鈴木久光発行の『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』と平成元年仙台市発行の『「新」目で見る仙台の歴史』である。


伊達氏が君臨する以前の仙台平野の支配者

伊達政宗が君臨する以前(中世の頃)の仙台平野の支配者は一時期、国分氏(中世豪族)に委ねられた。仙台藩祖伊達政宗が建立した仙台城は、かつて千体城(千代城)と呼ばれ、国分氏の居城であった。また晩年近くの政宗が移り住んだ若林城(小泉城)も国分氏の旧城跡地であった。はっきりした資料はないものの、或いは改築や増築が施されたのかも知れない。


旧豪族とも言える国分氏は東北一の歓楽街である青葉区国分町に、今でも名を残しているが、伊達政宗の仙台開府以前は国分寺周辺(木ノ下の薬師堂)周辺に栄えた国分旧町の住人を移転させた区域であると言う。移転した国分町には、国分の多くの家臣団が居を構えることになった。一方、仙台城大手門を起点として東に延びる大町と国分町との辻は「芭蕉の辻」と言われ、城下唯一の賑わいを誇った。


留守氏の台頭と国分氏との相克

鎌倉時代の始め、留守氏は多賀城陸奥国府の留守職(るすしき)に任命され、宮城郡に下向した。戦国期の初期には岩切城(高森城)を居城として宮城郡の東半分を支配していた。こうした背景もあり、留守氏国分氏は領地を隣り合うライバルとなっていった。ここで郷土史家、元仙台市博物館職員(仙台市史編さん室長)である菅野正道氏の描いた中世時代の仙台平野の勢力図をご覧頂きたい。


この頃、伊達氏は仙台平野の支配者になっておらず、群雄が割拠する時代であった。菅野氏は伊達氏と留守氏の家臣が取り交わした一揆誓約状を例に挙げ、この頃の豪族同士が優劣つけ難い関係であったのを示している。もう少し時代が進むと、留守氏と国分氏は伊達氏の家臣に組み込まれるわけだが、戦国期の一時期に至っては五分五分の関係であったようだ。粟野氏は拙ブログで何度か紹介した豪族だが、狭いながらもこのように東西に広い領地を有していた。


※仙台市発行『「新」目で見る仙台の歴史』に掲載された菅野正道氏作成の資料より引用


1豪族の勢力図


小鶴城(逸見)は留守領の西南端に位置しており、攻防の拠点とも言える要衝であった。ここでは何度も両者の間に激戦が繰り広げられたという。室町時代初期において、両者の間に決定的な明暗をもたらしたのが、観応元年(1350年) の岩切合戦(岩切城の戦い)であった。足利兄弟の軋轢により尊氏派の畠山国氏直義派の吉良貞家とが奥州探題 (奥州の軍事・行政を統括する地位)を懸けて争ったが、結果は事前の用意周到な策略で優位に立った吉良側の圧勝に終わった。この戦いによって勝利した吉良側に付した国分氏が浮上し、一方で負けた畠山側付した留守氏は痛手を受け、零落を余儀なくされた。


ライバルの留守氏を蹴散らかしたに見えた国分氏は室町中期まで、順調に領地を広げていった。この頃、国分氏の支配した土地の南限は名取郡まで及んだ。国分氏の第12代の盛綱は小鶴城の戦いで戦功を挙げ、「百戦百勝の功あり」とまで謳われた。しかしながら永正3年(1506年)に行われた大規模な合戦(小鶴合戦)で、留守氏が大勝を収めるなどして、留守氏は権威を取り戻していった。この頃南奥州から破竹の勢いで進出してきたのが伊達氏であった。


留守氏と国分氏はこの頃から伊達氏と抗うのを止め、養子縁組をして伊達氏の麾下に属するという方策を選んでいった。真っ向から抗ったのでは、とても伊達にはかなわないと思ったのだろう。奥州の大名や豪族の多くは、敵対する相手とこのような養子縁組や政略結婚を行い、衝突を未然に回避していた。これは「奥州の作法」とも呼ばれる。但し、この奥州の作法は仙台藩祖・伊達政宗の出現で大きく崩れるものとなる。政宗は織田信長と似ていると言われるが、力のある者こそが覇権を握るべしと考えていたのである。


※仙台市発行『「新」目で見る仙台の歴史』より引用


2伊達・国分・留守系図


さて中世の頃、何度も合戦が行われた頃の小鶴城を振り返ってみたい。比高20メートルと言われる小高い丘にそびえる城の南側には、規模の大きな沼(小鶴沼)が存在していた。仙台藩が幕府に提出した正保2年の絵図には「長、九町。横、三町。深、五尺」とあり、今の寸法に換算すれば長さ(南北)が1キロ近く、幅(東西)300メートル以上で、深さは1・5メートルほどあったことになる。


 小鶴沼を始めとして周囲は梅田川や藤川(梅田川の支流)の氾濫域で広大な湿地帯が広がっていたのだろう。ほぼ正面が小鶴城跡である。4車線の道路は昭和後期に造られた道路である。小鶴沼があったのは道路の右側の辺りである。今となってはまったくイメージが湧かないほど、様子が変わってしまった。


3今は住宅地となった小鶴城跡


横町コメント

インターネット上ではあまり見かけない小鶴城や小鶴沼ですが、このようなマイナーなものを取り上げるのも、自分に課せられた責務と考えています。意図としては、自分の記事をベースにして、誰かの研究の踏み台となればいいということです。それが数年後か十数年後になるのかは皆目見当が尽きませんが、ブログで歴史を扱うことに意義を見い出すとすれば、最後はそこに行きつくしかないと考えています。


郷土史家である紫桃正隆氏(1921~2008)は常にそのようなことを考えていたと言いますが、これは自分との見解を一致するところでもあります。自分はアナログ上にしか存在しない紫桃氏の貴重な資料の多くををデジタル化して、後学に託したいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。

 ▼▼▼


5七百横町

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)