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本日は昨日訪れた太白区の鹿落観音のことを掲載したい。方角にして南東方向になるが、ここを真っすぐ進むと八木山入口を経て愛宕山~大年寺山~茂ヶ崎に至る。複数のルートを持つと言われる東街道だが、このルートは最も西側の道となる。今は仙台市道となっていてバス通りでもあるが、周囲にはマンションも建ち並び、活気に溢れた様相を呈している。

1南方向

北側に目を移すとY字路が存在するが、瑞宝殿(仙台初代藩主伊達政宗の廟所)の看板の裏側が本日紹介する鹿落観音である。右側の坂を下れば東街道だが、鹿落坂を下りきった辺りが東街道の渡河点である。

2Y字路

河岸に建つ高層マンションのすぐ脇にこのような道標が存在する。鹿落坂イコール東街道と解釈して差し支えない。越路(こえじ)とは以前は八木山一帯を指す地名であり、命名には
①地形的な要因(山などを越える)にちなんだとする説(近世以降)
②牡の鹿が牝鹿を恋いてこの付近の山里を往来したとする説
③個々の集落を行き来した古代人の行動とする説
があるとされる。但し①と③は判別し難く、一つに纏めても異論のない気がする。ちなみに、越路は現在の住居表示(仙台市太白区越路〇〇)にその名を残している。

3道標

鹿落坂は鹿が転げ落ちるほどの急な坂であったことが由来となっている。左側に見える建物は鹿落堂と呼ばれる蕎麦店だが、震災以前は鹿落旅館という旅館があった。今回紹介する鹿落観音は鹿落堂の建つ地点の南西隣(擁壁の上部)となっている。

郷土史家の故三原良吉氏によると、昔はこの坂は難所で、滑落事故で死者が出るほど、危険な場所であったという。今はご覧の通り、バス同士が難なく擦れ違えるような立派な道に生まれ代わり、難所を偲べるものは見当たらない。蕎麦店(鹿落堂)はロケーションに優れるスポットとのことゆえ、一度訪ねてみたい店である。

4鹿落坂

ここが鹿落観音の入口である。

5入口

以下Wikipediaより引用
慶長2年(1597)、荒町昌傳庵十世の嶽扇宗悦が開山し、青葉ヶ崎(仙台城の本丸があった場所)に建立されたが、仙台藩祖伊達政宗の入府にともない仙台城が築城されることになり、経ヶ峯(政宗を始めとした初代~三代までの仙台藩主の廟所がある場所)に移転。政宗の死後、その遺骸は経ヶ峯に埋葬され、瑞鳳殿となった。その後、第2代藩主忠宗が万治元年(1658)に死去すると同地に埋葬されることとなり、現在地に移転した。

6お堂

かつては曹洞宗寺院である経部山大蔵寺が別当寺として奉仕していたが、1889明治22年)に大蔵寺が荒町昌傳庵に統合されたために、現在は昌傳庵の管理下に置かれる。本尊の聖観音慈覚大師の作と伝えられ、記録によると青葉ヶ崎で仏道を広めた満海上人の護持仏とされている。

二度も移転を余儀なくされたことになるが、鹿落観音は仙台三十三番の札所ともなっている。伝説によると伊達政宗は満海上人(天正年間、気仙沼松崎に生まれ、弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏となるため入定したと伝わる)の生まれ変わりとされる。(政宗の母である義姫の夢枕に立ち、義姫の胎内を借りたとする逸話より)

7由来

境内からはこのように広瀬川と東街道(鹿落坂)を見下ろすことが出来る。古代から近世にかけ、歴史に名を残した人物の多くが通ったであろうと思われる場所だけに感慨深いものを感じるスポットである。方角的にほぼ正面が南東側(広瀬川下流方面)である。高い鉄塔のある山は大年寺山、中央やや左寄りの小高い丘が愛宕山である。

8東街道と広瀬川

Google3D立体画像で鹿落観音の位置を確認して頂きたい。渡河点は複数の文献から推定した位置である。この後、東街道は米ケ袋地区を東に向かい、若林区の陸奥国分寺(薬師堂)、木下方面に向かったものと推定される。

9Google3D立体画像

横町コメント
現在文芸誌みちのく春秋に寄稿している歴史作品『東街道をゆく』の執筆が仙台市太白区鈎取のあたりまで進んできました。秋号(10月10日発行)には掲載されるものと踏んでいます。その後のネタが鹿除け土手であり、茂ヶ崎城(中世豪族粟野氏の居城)などです。

そのような流れもあり、今回は鹿落観音を取り上げてみました。東街道沿いの史跡に関してはこれまで多くの取材を重ねてきましたが、現地を訪ねることで初めて得られることも多く、やはり取材は欠かせないものと考えています。

歴史を書いていると、時に異論にも遭遇しますが、そんな時は「ブログのコメント欄での異論のやり取りはけして本意でないので…」と述べさせて頂いています。但し、所在を明らかにした上での議論のやり取りはやぶさかではありません。場合によってはビジュアルで実際に逢って研鑽に及びたいとも考えています。

異論を書き込んでくるかたのほとんどは匿名によるものです。私は自分の書いたことが絶対的に正しいとはこれっぽっちも思ってないのですが、曲解するかたが居られるようです。歴史を書くのは容易なことではありません。それは常に人様の批判の矢面に立つ可能性を有するということです。それでもこれを止めないのは、自分の研究を叩き台として後学のかたの役に立てる可能性があるからです。

私はアナログ媒体で得た知識をデジタル媒体(ブログ)に残すことは自分の務めであると認識しております。但しブログ上で論敵との議論は望んでいません。どうしても議論したいというのなら、お互いの所在を明らかにした上で、歴史研究会などのビジュアルな場でお会いしたいと考えています。私は逃げも隠れもしません。
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10六百横町
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