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伊達政宗による葛西家臣残党狩り
歴史は勝者によって塗り替えられてきた。伊達政宗公と言えば、我が宮城県や岩手県の一部では圧倒的な存在で、今でも英雄扱いされている。だが、そんな郷里の英雄も戦国の世を渡るためには謀(はかりごと)をしてきたのである。その史実に迫ったのが郷土史家・故紫桃正隆氏著の「仙台領の戦国誌」(葛西一揆中心編)である。
以下「仙台領の戦国誌」と公益社団法人みらいサポート石巻「続・まちあるき帳 葛西の地」の両者を引用の上、著者が編集。



葛西晴胤(葛西家第15代当主)が石巻の日和山城を捨て登米寺池(現登米市)に居城を移したのは1536年(天文5年)のことだった。それまで石巻は300年近くに渡って葛西氏の領地だった背景には一族郎党による内紛があったとされる。天正18年(1590年)に400年続いた中世大名葛西氏は17代晴信を最後に滅亡した。滅亡の原因は太閤秀吉の奥州仕置である。混沌とした情勢の中、葛西は小田原攻めに参戦できなかった葛西晴信は居城の登米寺池城で自刃したとされる。他説あり)

※仙台葛西系図
郷土歴史倶楽部(みちのく三国志・・葛西一族編より引用)



一時、木村伊勢守父子の新領主が派遣されたが、一国を治めるだけの裁量がない人物で、葛西の残党と百姓たちが父子の布いた圧政に対して蜂起することになる。この鎮圧を太閤秀吉に命ぜられたのが政宗である。一方で政宗は一揆煽動したのでは?という疑いが掛けられた秀吉への忠節は反乱を起こした者制圧で示すしかなかったのであるこの時政宗は一揆を起こした首謀者に「降参したら者に対しては領地は小さくなるものの、名は残す」と伝えつつ、大量殺戮を謀ったのが「須江山糠塚の変」である紫桃正隆によると、葛西家臣の多くが伊達に親近感を持っていたという。一揆が終息に近づいたころ政宗は主な首謀者を深谷(小野)に集めた。紫桃氏によるとこの時集まった葛西側の者は従者を含め数百人に達するとされる。

※赤○:伊達側によって大量謀殺が行われた石巻市須江山


そして「太閤秀吉様には軽い裁定をお願いしてやるから、各々の知行地で沙汰を待て」と命じた。言葉を信じ、それぞれの地に向かう帰路、須江糠塚で待ち伏せしていた伊達勢千人以上(紫桃氏推定)に襲われた。この襲撃指揮者の一人は後に、ローマへ派遣された支倉六衛門がいたとされるこの謀殺で旧葛西重臣を含む郎党ら数百人が殺され、伊達側の斬り込みを何とか逃れ生き残った者の多くも山の沢で自刃したとされる。

現在、付近の糠塚桑島氏の屋敷前を流れる沢を「殿入沢」と呼んでいる。またその時、旧葛西氏の巨将西郡新右衛門と伊達武将・木村上野重景との一騎打ちもあった討たれた西郡新右衛門の墓が「細田山碑」として残っているという。
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著者挨拶
我々宮城県人、仙台人は伊達政宗を神格化している部分があるのかも知れません。郷里の英雄とされてきた彼が、秀吉への忠節を示す為に、或いは葛西家の再度の反逆の芽を隔絶する為、葛西残党に対してこのような仕打ちを行ったというのは大変なショックで、最初のうちはまさかあの政宗公がと思い、どうしても信じられないほどでした。しかし読み進むうちに様々な古文書(特に葛西側のものにははっきり書かれたものが多い)にこの惨劇の証拠が残されているのを知り、須江山での謀殺は、ほぼ史実に違いないと受け止めております。

もう一つ気になるのは私のルーツが伊達側と葛西側の双方に関わったらしいということです。祖父方親戚から聞いた言い伝えによると、私のルーツは岩手県から流れてきて、北上川開削工事を担当した川村孫兵衛重吉の下で人足をしていたというのです。そしてその苗字からは葛西氏に仕えた家臣らしいということがわかります。

然らば帰農したのはいつごろなのか?明治維新を経て、どんないきさつで士族授産を目的とした牡鹿原(現石巻市大街道)開拓に関わったのか?どんな功績があって広い土地を手に入れるに至ったのか?このあたりを何とか解明したいと思っています。佳境に入りながらも暗礁に乗り上げた感のあるルーツ調べですが、それらを解明することが執筆にも繋がると認識しております。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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