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 みやぎの先人集「未来への架け橋」第20話 大槻磐渓 -開国を唱えて- 


【リンク動画について】

ブログのカテゴリーに「日本の儒者の研究」を掲げて間もなく5年が経つ。これまでは全国的に名の知れた儒家のみを紹介してきたが、今回は幕末の仙台藩が生んだ儒者(幕末~明治初期に活躍)を紹介したい。その儒者とは大槻磐渓(1801~1878)である。詳しくはYOU TUBE動画をご覧頂きたい。


磐渓の略歴を記したい。参考にした資料は郷土史家である古田義弘氏著『郷土の偉人傳Ⅱ』である。ちなみに、古田義弘氏は1936年生まれで岩手県一関市出身。住宅問題評論家・東北福祉大学客員教授である。1968年(株)フルタプランニング設立、代表取締役社長を務める傍らで、1973年NHKや地元民放に出演、住宅情報番組に出演している著名人である。住宅評論の傍らでメディアに出演し、一方で畑違いとも思われる郷土史の本を出版しているところが素晴らしい。


氏は大変謙虚な人柄だが、これは宮城県~岩手県内陸南部に共通して感じる地域性である。葛西魂とも言えるのでないだろうか?


1古田義弘


さて、前置きはこれくらいにして大槻磐渓の略歴について箇条で紹介したい。


・1801年(享和元年)宗家である一関大槻家の江戸分家の大槻玄沢の次男として江戸に生まれる。尚、磐渓の父の玄沢は一関(今の岩手県一関市)に生まれ。杉田玄白(蘭学者)に学び、仙台藩の学問所である養賢堂の学頭になった人物である。

・幼い頃から才気にあふれ、10歳になると他の漢学者が驚くほどの漢文を書くようになる。

・17歳で昌平坂学問所(徳川幕府直轄の教学機関)に入学し、志を同じくする全国の若者と交わる。

・年月を積むごとに、昌平坂学問所での勉学に疑問を持つようになる。(この頃、日本の各地に外国の船が姿を見せるようになり、国中に不穏な空気が漂い始めていた)こうしては居られないと思った磐渓は長崎に行きたいと父の玄沢に願い出た。

・1841年(天保12年)磐渓の熱意に負けた玄沢は長埼行きを許可した。

・長崎では砲術家の高島秋帆らに会い、見聞を広めることができた。

・1853年(嘉永6年)に浦賀沖にペリーの黒船が入港し、幕府に開国を迫った。仙台藩はこの時磐渓を浦賀に派遣した。ここで磐渓は中国人の通訳と会話を交わすことができた。磐渓は米国の圧倒的な国力を肌で感じ、開国の必要性を強く感じるに至った。

・このような経緯で磐渓は「開国が必要である」との意見書を仙台藩に提出した。これによって尊王攘夷を唱える薩長などから命を狙われるようになる。

・1862年(文久2年)、仙台藩は磐渓の暗殺を恐れ、磐渓を仙台に呼び戻す。

・1865年~1866年、仙台藩では藩の教学機関である養賢堂の学頭を務める。

・1867年(慶応3年)に幕府は大政奉還を行うと、翌年には戊辰戦争が勃発する。

・戊辰戦争が終結すると、磐渓は仙台藩の漢学者として投獄され、磐渓は死を覚悟する。

・その後、弟子たちの嘆願がかなって自由の身となる。

・自由の身となってからは静かな余生を送り、1878年(明治11年)に江戸で77年の生涯を閉じる。


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大槻家は名門だが、ルーツを遡ると葛西氏(豊臣秀吉の奥州仕置き以前に宮城県北部~岩手県内陸南部を支配した戦国大名)の家臣(大槻但馬守平泰常)に行き当たる。この人物は豊臣秀吉の奥州仕置きに対抗して、一時は抗ったものの、事態の平定と残党狩りを命じられた伊達側の謀略に遭い、自害に追い込まれた人物とされる。詳しくは郷土史家・紫桃正隆氏の『仙台領の戦国史』に詳しく記されているが、私も2018年の2月21日にブログに記事「伊達政宗による葛西残党狩り」を書いている。https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-321.html詳しく知りたいかたはご覧頂きたい。


江戸大槻家の玄沢、磐渓、文彦の三人は大槻三賢人と言われ、JR一関駅の前に銅像がたてられている。ルーツを伊達に殺された大槻家は、その後伊達家にかかえられ、謀反をすることなく仙台藩の家臣となって近世に至るまで、その血筋を残した家柄である。ちなみに、この家系図の引用元である「みちのくトリッパー」こと大槻一憨氏も延々と続く江戸大槻家の血筋を引く人物であると言う。https://michinoku-ja.blogspot.com/2016/11/


大槻一憨氏は現在仙台市青葉区在住と聞くが、伊達に関わったルーツを持つ同士、今後歴史研究会などで会う機会が訪れるのを心から願いたい。


2家系図


大槻磐渓は三男の文彦に家督を継がせているが、長男の如電(漢学者)に家督を継がせなかったようだ。ちなみに、長男の如電は大槻三賢人には入っていない。三人の顔つきを見れば何か訴えかけるものを感ずる気がする。尚、次男については情報を見つけることができなかった。


3大槻家の三人


横町コメント

大槻磐渓の生き様に触れ、我が仙台藩にも立派な儒者が居たことを認識した次第です。彼のようなブレインが幕末の仙台藩に居たのは、郷里の誇りとも言えます。彼は高名な学者ということで、投獄後の処刑(斬首)は免れたようですが、明治維新後の宮城県の教育界に多大な影響を及ぼした人物でもありました。ここに改めて、彼の教育者としての厚き志に敬服したい所存です。


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4七百横町

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