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私は以前、織田久著「『嘉永五年東北吉田松陰東北遊日記』抄」を読んで吉田松陰が嘉永5年(1852年)に東北を遊歩した時の主な旅程をブログに書いた。
一方で、松陰が訪れる64年前の天明8年(1788年)に、石巻を訪れた古川古松軒(地理学者)は「石の巻は奥州第一の津湊にて、南部・仙台の産物この地へ出て江戸に積み、大阪へ廻るゆえに、諸国よりの入船数多にして繁昌の湊なり」と『東遊雑記』の中で述べている。

吉田松陰は嘉永5年3月16日(陰暦)(1852年)石巻に宿泊仙台藩士・粟野杢右衛門宅)し、粟野杢右衛門の案内で日和山や石巻湊などを見て廻った。松蔭はその時の石巻の様子を「道路は四通八達し、旁径(枝道)多岐なり」と語っている。

その時から160年近くが過ぎたが、松陰が宿泊したとされる仙台藩士粟野杢右衛門邸跡を、いつか訪ねたいと考えていた。本日はその念願がようやくかなうこととなった。

石巻市南浜地区復興祈念公園(仮称) 基本構想(案)に掲載された往時の石巻湊の絵図をご覧頂きたい。多くの船が行き交い活気を呈している。松陰も活気にあふれた湊の様を見たに違いない。

1嘉永5年石巻湊眺望之図

満を持すために私は石巻市役所の生涯学習課(教育委員会)を訪ねて場所を確認した。応対に出た職員の話によると、「吉田松陰宿所」を示す立札が道路沿いにあるという。土地の所有者は日活パール(映画館)で昭和58年設置となっている。

2説明カード

寿町通の南端に来ると、一目でそれらしい昭和の頃と思しき建物があったが、現在は映画館は閉館となっていて、看板などは取り外されていた。(3階建ての建物に着目)

3昭和の建物

インターネットから借用した画像を見ると3階建ての建物が日活パールだったようだ。黄色い跳ね出し式の看板は唯一、往時と変わってないようだ。

4震災前日活パール

今昔マップに粟野杢右衛門邸跡をプロットしてみた。小路を経て永巌寺の向えというのが目印である。旧北上川の岸までは300メートルほどしか離れていないようだ。

5今昔地図

Google3D立体画像にプロットしてみた。青い寄棟屋根(木造)が目印である。

6Google3D立体画像

入場券売り場が今でも残っているが人気はなかった;

7入場券売り場

右側の青いとたん貼りの建物が旧日活パール(映画館)のようだが、粟野杢右衛門邸はこの辺一帯くらいだったと考えたほうが実情に近い気がする。

8永巖寺の向え

北側からのアングルである。立札はついに見つからなかった。恐らく最近撤去されたものと考えている。

9東側より

インターネットから借用した立札の文言である。邸内には合歓園という庭があったが、戦後に姿を消したのは残念なことである。

10立札

北からの遠望である。屋敷がどれくらい広かったのかわからないが、或いはこの建物の辺りまでが、仙台藩士・粟野杢右衛門邸だったのかも知れない。

11東側より遠望

横町利郎
吉田松陰が東北地方を周遊したのは22歳(満年齢)の頃でした。目的は大きく三つあったとされます。一つ目は佐久間象山の下で学んだ兵学的見地を深めること、二つ目は日本の国防における軍事施設を見て廻ること、三つ目は往時脅威とされた外国船の往来する北限の地北海道、津軽)の視察であったとされます。

石巻で粟野杢右衛門宅を訪れた際、松蔭がどんな会話を交わしたのかについては、一切記録に残ってないようです。東北周遊において、彼が比較的長い期間滞在した地域には、話をするに価する人物が居たことも挙げられますが、或いは松陰は粟野杢右衛門を始めとした石巻在住の人物とはあまり話し合う必要を感じなかったのかも知れません。

震災後のこの界隈は、マンションや店舗などもでき雰囲気が全く変わりましたが、往時はもっと雑多な雰囲気だったのかも知れません。湊町という性格上、往時の石巻には遊郭もありましたが、松陰は脇目もふらなかったようです。

ともあれ、吉田松陰のような幕末の偉大な思想家が、我が故郷石巻に立ち寄った意義は非常に大きいものがあると受け止めております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。
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12七百横町
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