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鹿除土手(ししよけどて)

二〇二一年の四月、私は東街道の山田地区、鈎取地区を訪ねる際、太白区山田市民センターに立ち寄った。東街道絡みの史跡に関する資料を収集する為である。その際、市民センターの建物の傍にフェンスで囲まれた一画があるのに気づいた。どうやら史跡らしい。それは藩政時代に造られたとされる鹿除土手杉土手とも)を現状保存したものである。(山田地区の土手の全長は約五十メートル)鹿除土手は仙台藩二代藩主の伊達忠宗が建設したと言われ、総延長六・四キロに及ぶ人工的な土手である。


1山田市民センター内の杉土手

西端は山田の欠ノ上から東端は大久保谷地(ますみ幼稚園付近)に及ぶが、現存するのは山田公民館の敷地内を含めて三箇所(山田地区・東原保存緑地地区・茂ヶ崎地区)のみとなっている。資料を調べると、これまで複数の先人がこの土手のことを調べている。その中には土手の連続性を追ったものもあり、鹿除土手が川や堀を除いたところでほぼ繋がっていたことを示したものである。連続性が証明されたことにより、建設の目的である獣の侵入による農作物への食害を防止することへの強い目的意識を感じさせる。断面的には高さが一・八~二メートルくらい、幅が三・五~六メートルほどで、鹿や猪の侵入はもとより、適所に山守(武士)を配置して一般人の立ち入りが厳しく規制されていた。天然の要害である仙台城の防備上の最大の弱点は城の南西側に延々と続く山林とされる。表向きの目的は獣による食害を防ぐものであっても、城の防備の補強をしたいという本音があったのでないだろうか。


江戸期に入り太平の世を向かえたとは言え、大名の城固めは結構見られることであり、さほど珍しいことではない。例えば伊達の隣藩の相馬は伊達との領地の界に近い相馬中村城(現相馬市)の本丸の築城と北側の城壁の補強工事を、所領を安堵された江戸期の初期に行っている。仙台藩の二代藩主・伊達忠宗は、藩祖である政宗の意向に準じて幕府を刺激しない範囲で、仙台城の弱点の補強工事を模索していたのでないだろうか。土手は仙台城を囲むかのように、青葉山丘陵の北と南の二箇所で確認されている。北方の土手は青葉区下愛子の丘陵麓にあり、南方の土手が杉土手と称されている。ちなみに山田本町付近の旧町名には山田字杉土手の地名が残ってい。 


鹿又一族ゆかりの地

二〇二一年の七月、東街道にほど近い、太白区西多賀の旧町名東原地区を訪ねた。目的は仙台藩士・鹿又家周辺の史跡(鹿又戸兵衛明神社と近くにあるとされる戸兵衛の墓所)をこの目で見ることである。鹿又家に関する資料は少ないが郷土史家である木村孝文氏が書いた『太白の散歩手帳』を参考にさせて頂いた。下調べを入念にした上で出発したつもりだったが、付近のかたに聞いたところ、目当ての鹿又戸兵衛を祀った鹿又戸兵衛明神社は二〇一七年に仙台市によって解体されしまったという。明神社は仙台藩士鹿又家の末裔の親戚筋に当たる元仙台市長の鹿又武三郎氏が、以前はカヤ葺きの小さな祠だったものを昭和六年に明神社として建てたとされる。『太白の散歩手帳』によると、鹿又家のルーツは藤原鎌足の十四世坂戸河内守則経の十世鹿又近江守助隆を祖とする本流から分かれた筋であると言う。ちなみに本流は南小泉地区に所領を得ている。鹿又戸兵衛明は鹿又助隆の流れを汲んだ人物で十六世に当たる人物である。助隆の祖父に当たる十四世八郎兵衛は、平士二百十三石取りの伊達家臣として、伊達郡大石原に住み、その子九郎兵衛が伊達政宗の代になって相馬との戦いで勲功を挙げた。


相馬藩は鹿又九郎兵衛に強い恨みを持ち、藩主直々に九郎兵衛と弟の藤四郎を闇討ちにせよとの命が発せられた。その結果九郎兵衛は二本松の熊井で殺され、弟の藤四郎は伊達に逃れようとする途中の金山城(現丸森町)で追手によって殺害された。相馬市史では鹿又九郎兵衛が荒九郎兵衛という姓になって記述されているのを見ると、伊達と相馬との和議で九郎兵衛が相馬領の小田原地区に移り住み、入嗣した後で謀反の疑いをかけられたようだ。幼かった戸兵衛は、相馬では罪人の子として扱われ、伊達家に引き取られた。 戸兵衛は父を斬った三人のうちの二人を討ち(一人は既に病死)父の無念を晴らした。その後の戸兵衛は追手を逃れて放浪した後、大坂冬の陣の頃、黒はばき組(間者)となって功を挙げ、伊達忠宗のはからいで名取郡鈎取村に野谷地、田宅を賜ったという。


鹿又戸兵衛明神社建立に当たっては先祖を惨殺した相馬に対する怨念を現わす為に、南向きに配置されたと伝えられる。付近には鹿又家に仕えた家臣の末裔も住み、毎年盛大な祭りが行われたという。明神社跡には住宅も建てられ、今となっては往時の縁を見い出すのは困難だが、鹿又一族が住んだ丘陵地一帯は戸兵衛らの波乱万丈な生き様とともに、今でも異彩を放っている。知る人ぞ知る隠れ歴史スポットと言って差し支えない気がする。


2鹿又戸兵衛明神社跡地付近

話は変わるが、これとよく似た話に相馬十六代藩主・相馬長門守義胤(一五四八~一六三五)の廟所がある。南相馬市の小高区の同慶寺には相馬家十六代以降の藩主の墓所があるが、実弟である相馬隆胤(中村城城主)を伊達に童生淵で殺害された十六代藩主・相馬義胤の遺骸は甲冑を着たまま、槍弓を持ち伊達の方角である北を向いて埋葬されたと言われる。伊達と相馬の相克に関する話は尽きないが、このようなところに天文の乱に端を発した両家の捨てがたい確執を感じる。


尚、この後鹿又家十四世八郎兵衛と十六世戸兵衛の墓を探しに、近くの太白区山田市民センターに出向いたが、遂にわからず仕舞であった。或いは明神社が解体された折に移転されたのかも知れない。鹿又家は間者(黒はばき組)に携わったこともあって、古い家柄にも関わらず追跡している学者や郷土史家が少ないようだ。これは仙台の芭蕉の辻の四隅の建物を恩賞に授かったとされる虚無僧の話の朧な様とも似ている。それだけに、黒はばき組に関しては今後の一層の解明を望みたい。


東原保存緑地の鹿除土手

東原保存緑地の中に現存する鹿除土手は保存状態が良好で、往時の土手を偲ぶに相応しいものを感じる。土手には杉の切り株が残り、杉土手と呼ばれた頃の面影が感じ取られた。杉という木材は建材にも薪にも使えるので、藩政時代にはことのほか重宝されたことだろう。そう思うと、昔人の叡智に触れような気がする。両側は住宅地であるが明神社のあった場所の近く(太白区西多賀丁目十六番地界隈)は廃屋も結構目立った。平成を過ぎ時代も令和となり、世代交替が進んだのを改めて感じた。


意外に思ったのは浸食された為なのか、土手への上り下りが容易であることである。このままでは本来の目的が達せられないのではと感じた。或いは往時は往来を妨げる為に杭などが打たれていたのだろうか。このあたりは想像に委ねるしかないようだ。それはさておき、築造から既に三百数十年を経て、四百メートル近くも人工的な土手が現存しているのは驚きである。もちろんこれは仙台市が保存緑地に指定したせいによるものだが、藩政時代の貴重な生き証人として後世に是非遺して欲しいものである。立地として気になったのは鹿又一族が移り住んだ場所と鹿除土手が近接していることである。恐らくは、鹿又家が新領地となったこの辺りの土手の検断役を仰せつかったのでないだろうか。そう考えるのがごく自然のような気がする。


3東原保存緑地内土手と切り株

茂ヶ崎地区の鹿除土手とおおくぼやちの謎

太白区茂ヶ崎地区を訪ねたのは七月半ばのことである。目的は藩政時代に造られた鹿除土手の東地区(茂ヶ崎)を確認する為である。土手がはっきりと残っているのは黄檗宗大年寺の惣門から東のセクションである。惣門は、五つの切妻屋根を有し、外観的には高麗門の形式を左右に複雑にしたもので、建築年代は享保元年(一七一六年)の頃とされる。門前方には、皷山道霑筆の「東桑法窟」の額を掲げ、昭和六十年には仙台市指定文化財となった。惣門の前に設置された立札には享保十九年(一七三四年)に描かれた大年寺の絵図がある。その絵図に描かれているのが鹿除土手である。


大年寺山(茂ヶ崎城址)の頂上には、凡そ仙台藩主四代以降の廟所がある。参道の石段の南方には門前町が拓け、国道二八六号線を経て、かつての門前町は東街道と辻をなし、角地にはステンレス製の標柱が建てられ”東街道”と記されている。周囲は新しい住宅が多いものの、往時の面影を僅かに遺している。


茂ヶ崎は中世の頃は豪族粟野氏(その後伊達に麾下した後に没落)の居城があった。伊達の地領になってからは、元禄から宝永、正徳、享保に至る四代伊達綱村公から五代吉村の時代に二十塔院が開基されたが、安永から幕末にかけて残存していたのは十八塔院である。何れも明治維新後に藩の庇護を失い唯一の遺構である惣門を残し廃寺となった。


現存する土手は五十メートルほどだが、今でも立派な杉の若木がそびえ、鹿除土手の別名である杉土手を想像するに相応しい佇まいである。土手はその後国道に沿ってほぼ直角に折り返し、向山保育所のある大久保谷地付近まで達していたとされる。地名の通り大久保谷地は池沼を伴う低地であったが、一説に広瀬川の河岸段丘が生んだ副産物とされる。


私が幼い頃通園したますみ幼稚園はその大久保谷地に近いが、どういうわけかチャンバラごっこをした際にガキ大将が「おおくぼやち」と叫んでいたのを記憶している。すっかり自分の名前のことを名乗っているものだとばかり思い込んでいて、恥ずかしながらこの歳になるまで、おおくぼやちなる固有名詞が地名であったのを知らないままであった。わんぱく盛りの幼稚園時代の自分が、土手や沼の跡のようなものを見た記憶はまったくない。ちなみに、明治(一八七六)の地籍図では根岸交差点から大窪谷地までの地名は「鹿除土手囲番」となっていた。


4東街道ステンレス製標柱

横町コメント
伊達政宗が抱えた忍者黒はばき組は水面下で敵の動きを知り、その働きが大きく戦局を左右したことを実感しております。彼らは政宗の命により必要な情報を送ったり、謀略の為の流言などを仕組んだとされます。黒はばき組の八面六臂の活躍がなかったら、伊達政宗は南奥州の覇者になっていなかったのかも知れません。但し、彼らは忍びの者という立場上、素性を知られるわけにはゆきません。このあたりの事情が歴史の表舞台に出難い理由と受け止めております。

鹿除土手については、大義こそ鳥獣から農作物を保護することでしたが、城の守りの強化を意識した気が致します。相馬の民謡である相馬二偏返しの一節に「花は相馬に実は伊達に」という言葉がありますが、鹿又家に起きた出来事は伊達と相馬の確執が根深いものであるのを、改めて実感した思いがしました。

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5六百横町
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