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ALBINONI: ADAGIO - XAVER VARNUS PLAYS THE INAUGURAL ORGAN RECITAL OF THE PALACE OF ARTS OF BUDAPEST
リンク曲について
この曲はパイプオルガンの奏でる重厚な音楽だが、確かに聴き覚えがある。仙台市博物館のシアターで毎日流される仙台藩士・支倉常長の映像「支倉常長・光と影」に登場するBGMである。数奇な運命に弄ばれながらも、強靭、不屈な精神力をもって侍としての使命を全うした支倉は私の窮地を救った人物でもある。私が彼に成り切ったのがちょうど10年前の今頃だった。それまで鬱を患いずっと沈んだままだった私の心に火を灯したのが彼だった。侍に成り切るということはどういうことか…とにかく、周囲から好奇な目で見られたのは想像に難くない。その時のことは話せば長くなる。興味のあるかたは中編小説「我が後半生と武士道」をご覧願いたい。

さて本題に入りたい。孔子の言った「五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩( のり)を踰(こ)えず」はあまりにも有名である。果たして今の自分は年に見合った器量があるのか?ということを推し量るのに、この言葉は的を得たものなのかも知れない。

「五十にして天命を知る」…実は天命には二つの意味があるという。一つは自分の運命はけして変えられるものでなく、受け入れねばならないものであるということ。もう一つは自分が生涯で果たすべき仕事のことを天命というものである。二番目の天命を悟った私にとって、この点に関しては卒業出来た気がする。然らば、「六十にして耳順がう」はどうか?自信はないが様々な感性を持った多くの人物の多様性を概ね知った今は、これもそろそろ卒業と捉えている。

最後の「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」は今の私の前に立ちはだかる絶壁である。私は現役時代、サラリーマンとして生き残る為に自己主張をしてきた。そうしたスタンスは欧米では通ることなのかも知れない。だが、ここは欧米でない。日本である。まだまだ儒教思想が人々の心の奥底に浸透している以上、私はこの難関に立ち向かわねばならない。

「心の欲する所に従って矩を踰えず」…これは人としての完成を意味するもので、聖人と呼ばれた孔子だから為し得たことなのかも知れない。私が七十に達するまでこうした心境に達する自信はないが目指さねばならない境遇は、この言葉が物語っている気がするのである。「心の欲する所に従って矩を踰えず」が出たついでに「慇懃無礼」という言葉に触れておきたい。

慇懃無礼とは、言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま。 あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさまとされる。今の私がブログを通して、自分よりも若い方々にこういう印象を与えているのは薄々感じていた。然らば、慇懃無礼を解消するにはどうしたら良いか?

有体に言えば、若い人には高飛車になることなく、親しみを込めて話しかけ、それ相応の言葉遣いで誼を通ずることが肝要ということになる。但しこれは個人差もあること故、大変難しい問題なのである。これくらいまで言っても大丈夫と思っても、相手の心がガラスのような心臓ならば砕け散る可能性もある。然らば、年季を積むということは、外見や言葉遣いから相手の核を見通す能力が培われねばならないということである。

私はこの境地を目指し、これからもブログという勉強の場で、試行錯誤を重ねて行くことだろう。「心の欲する所に従って矩を踰えず」という目標とともに、今の私が、七十までその境地に達するかはわからない。だがその境地に達しようという努力だけは惜しまないつもりである。
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ミック挨拶
本日は酔いに任せて己の今思っていることを吐き出させて頂きました。私が最も嫌うのは背伸びすることです。ブログで自分を偉大に見せることは簡単ですが、それは読者様やブロ友様に嘘をつくことになります。私はそこまでしてブログを続けたいとは思いません。人間なら弱みを見せてもいい。弱みを見せることで真の人間同士の付き合いが出来る。私はそう考えています。本日はだいぶ酔いも回ってきたのでこれくらいでお開きにしたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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