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先日、石巻における吉田松陰(1830~1859)の足取りなどを書きたいと述べたが、石巻の止宿先の仙台藩士・粟野杢右衛門宅などの資料が揃ったので、あらましだけでも書いてみたい。4年前の2018年11月25日に書いた拙記事「吉田松陰が遊歩した東北」を引用しながら話を進めたい。参考にした図書は織田久氏著『嘉永五年東北』である。


吉田松陰は兄貴分の宮部鼎蔵(1820~1864熊本藩士・後の池田屋襲撃事件で新選組の襲撃を受け自刃する))とともに東北地方を周遊した目的については大きく三つあったとされる

佐久間象山の下で学んだ兵学的見地を深めること

日本の国防における軍事施設を見て廻ること

往時脅威とされた外国船の往来する北限の地北海道、津軽)の視察

以上であった。彼はれっきとした長州藩の士族ゆえ、諸国を見て廻るには藩(長州)の許可が必要だった。 出立に際して藩からは内諾を得たものの、正式な許可が出ないうちの出立であった。これは同行者の宮部鼎蔵らとの約束を果たす為でもあった。 これが後に脱藩者として彼にのしかかることとな。思い立ったら即行動、これは彼の志向の表れだが、その行動力の裏づけとなったのが陽明学であった。血気盛んだった頃の松陰の考えは倒幕攘夷であった。


1吉田松陰画像


嘉永4年(1851年)12月14日:吉田松陰通行手形未所持のまま(脱藩亡命扱い)東北を目指して江戸桜田門外毛利藩邸を後にする。宮部鼎蔵ともう一人の同行者である安芸五蔵(1827~1879・本名は江帾五郎、通称は那珂梧楼・南部浪人、兄春庵の仇討ちを決意し、南部藩参勤交代時に本懐を遂げる為、各地に潜伏)とは、後に水戸で落ち合う約束であった。 松陰は十日後の12月24日に水戸の鳥山信三郎(儒者1819~1857)の私塾(梁山泊)で、宮部鼎蔵と安芸五蔵と落ち合い、その後永井政助宅に投宿した。


嘉永5年(1852年)1月25日:鎌田~仙石~石川~赤羽~白河へ。この日は植田で一泊。


翌1月26日:御斎所街道~白河へ。松蔭は白河は奥州諸侯が参勤交代で必ず通る地(関所がある)で、市塵繁盛なりと語っている。松蔭は白河に三日滞在したが、面会した兵学者、剣客の口から出るのは俗談のみで失望したようだ。


翌1月27日:三人(松蔭、安芸、宮部)で一日酒を飲む。実はこの日は兄の仇討ち目指す安芸(本名:江帾五郎)と別れなければならない日であった。お家騒動に巻き込まれ獄中で死んだ安芸の兄だが、毒殺か自殺か、真実は闇に包まれたままだった。南部(現岩手県)を目指す安芸を松蔭と宮部は見送った。この後二人は会津に向かった。


…中略…


宮部鼎蔵(1820~1864)は新選組の池田屋襲撃事件で没している人物ゆえ、歴史に名を残した人物である。従ってこのような肖像画が残っている。

2宮部鼎蔵肖像

ルートは地図で確認して頂きたい。3月11日に盛岡に至る。盛岡はで安芸五蔵の家族宅(盛岡近郊の村と思われる)を訪ね、五蔵の近況を老母に伝えた。江帾春庵(五郎の兄)の仮埋葬所を訪れたが、板塀で厳重に囲われていて、これが松陰と宮部の悲壮感を一層誘った。


その四日後の3月15日:登米(現宮城県登米市)へ到着し泊まった。翌3月16日にはついに石巻に到着。仙台藩士・粟野杢右衛門(1814~1862)宅に止宿し、粟野の案内で港などを見て廻った。実は粟野は実妹を安芸五蔵に嫁がせたという。安芸の義理の兄であった。松蔭はその時の石巻の様子を「道路は四通八達し、旁径(枝道)多岐なり」と語っている。この時の石巻には妓楼があったが彼の眼中にはなかったことだろう。


3東北での足取り

この時の三人の年齢は粟野杢右衛門が39歳、宮部鼎蔵が33歳、吉田松陰は23歳であった。松陰にとっての兄貴分の宮部鼎蔵と親友の那珂梧楼(安芸五蔵)の義理の兄である粟野はどんなふうに映ったのだろうか?粟野杢右衛門の知り得る限りの情報などを披露したい。


仙台藩士・粟野杢右衛門(1814~1862)、別の名は道知、後に一平と改めた。凌雲と号し、暁に酔翁とも言った。南部の名士那珂通高(安芸五蔵)を愛し、女(妹)を妻にする。文久2年(1862年)9月29日没する。享年49歳。墓は仙台市北八番丁江厳寺にある。資性闊達にして小事に拘泥せず、勇敢で義俠心に富む 。四方の名士と交はり、其名人々の心を捉える。


松陰から見た杢右衛門は社交的で男気があり、なかなか豪快な人物であったようだ。16歳も年上の杢右衛門だが、石巻に来た松陰と鼎蔵をどんなルートで案内したのか?興味の尽きないものを抱く。


ちなみに石巻教育委員会の立札(粟野杢右衛門宅跡)には吉田松陰が粟野邸に宿泊したのは嘉永5年の5月16日となっていて、織田久氏著『嘉永五年東北』の内容と食い違っているようだ。『嘉永五年東北』は松陰の『東北遊日記』を基に、松陰らの足取りを詳しく述べているので、石巻教育委員会の日付のほうが誤りと考えている。


立札の文言によると「東北遊歴の途中、吉田松陰は嘉永5年(1852年)5月16日(3月16日の誤りと見られる)に石巻に到着し、親友那珂通高の寄寓先である、粟野杢右衛門の案内で日和山からの眺望を愉しみ、同行の宮部鼎蔵とともに粟野邸に一泊した。粟野邸は現在の日活パール劇場(廃業)の場所にあったと言われ松陰もその庭色を嘆賞した。邸内の「合歓園」は戦後(第二次大戦後か?)に姿を消している。」とのことである。


一説によると松陰は年間400冊前後の書物を読み漁り、まめに日記を綴ったとされる。彼が松下村塾の門下生に教えたこととして「本を読む者は、その精力の半分を筆記に費やさねばならない」と言うことが挙げられるが、勉強家の松陰が活気に溢れた石巻の湊を見て感動を抱きつつ述べた言葉が、先に述べた「道路は四通八達し、旁径(枝道)多岐なり」となるのだろう。


非常に短い表現だが、その中に往時の石巻の活気に溢れた拓け振りが窺える気がする。杢右衛門が、松陰らにどんな応対をしたのか?宿泊した日の天候や食事はどうだったのか?興味の尽きないものを感じる。往時の石巻には湊町特有の遊郭もあったが、松陰はそちらのほうにはほとんど関心がなかったようだ。


翌日3月17日:石巻~鳴瀬川を舟で渡り~富山(現宮城県松島町手樽)~松島~舟で~塩釜へ。塩釜に宿泊した。


※これは石巻千石船の会会長・邉見清二氏所蔵の1735年頃の石巻(松陰の訪れた頃の約117年前)である。赤印の所が粟野邸である。驚くことに粟野邸は何と御作業場となっている。藩直轄の作業場だったのだろうか?これは今後の研究課題である。

4石巻地図享保20年(1735年)頃:辺見清二氏所蔵

これは石巻千石船の会副会長・本間英一氏所蔵の明治20年(1887年)頃の石巻地図である。松陰が訪れてからまだ35年くらいしか経っていない。旧北上川との位置関係を見て頂ければ幸いである。赤印が粟野邸跡である。

5明治20年(1887年頃)本間英一氏所蔵

Google3D立体画像で現在の状況を表してみた。永厳寺とは道路一本隔てた向かい側(東側)が粟野杢右衛門邸である。

6粟野邸Google3D立体画像

横町コメント
ずっと以前から、吉田松陰が我が故郷である石巻に立ち寄ったことは知っていましたが、あまりにも資料が少なく、全容を掴み切れていません。然らば自分が率先して内容を調べて情報を発信したいと考えております。本日はその足掛かり(足場)を作ったと考えています。ここまで来るのに結構長い道のりでしたが、節目を越えたと解釈しています。

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7六百六十六横町
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