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前書き
本記事は過去二回のブログ投稿を経て推敲を重ねた記事であることをご了承願いたい。同時に本記事は自分が寄稿している季刊誌「歴史さんぽ」への原稿とすることを最初にお断りしておきたい。

歴史随筆「豪族十文字氏の栄枯盛衰」
私が中世豪族・十文字氏の館跡を訪ねたのは2015年4月末のことだった。館が
あったとされるのは宮城県南部の亘理町の逢隈十文字地区の由来だが、道が十字に交わることが由来と言われている。豪族や大名の多くは、新たに所領となった地名を名字に反映させたが、十文字氏という名も地名から取ったものである。私はその十字路から数百メートルほど南に離れた蕨地区に身を置き、微かな往時の面影を肌で感じ取り、少しでも己の心に刻もうと試みた。



ここで中世豪族・十文字氏の始祖について触れておきたい。(以下「ふるさと亘理 歴史の散歩路」より引用)源義経の家臣であった渡辺綱の子孫と言われる源左衛門綱安が衣川の戦いに敗れて落ち武者になってこの地に根つき、地名から十文字(道が十字型に交わる)を名乗ったと伝えられる。最近の研究では武石氏(亘理氏:相馬氏の祖であり源頼朝に仕え、奥州藤原征伐で武功のあった千葉常胤の三男)の一族とも言われ、一時は相馬氏と結びその同盟の証として、現亘理町各地に妙見社を建立したとされる。相馬氏の庇護の下、一時は2700石を抱える家臣となり栄華の兆しを見せた十文字氏であるが、その後伊達氏による伊具奪回などの巻き返しが始まり、一気に旗色が悪くなる。そして1585年に伊達成実(伊達政宗の従兄弟)に滅ぼされ末裔は帰農し、宮城県北部の涌谷に移ったとされる。

十文字館の特徴はその敷地が南北に長く、東西との比率が3:1(南北に20メートル、東西にメートル)にも及ぶことである。このへんの理由にゆいては定かでないが、堀などの地形的なことが関与したのでは?と捉えている。難攻不落とは縁のない平城ゆえ、敵に備え往時は水郷も張り巡らされていたのでは?と考察する。館跡の西に鎮座する十文字神社はその名の通り、十文字氏ゆかりの神社で、かつては主君である相馬氏が信仰した氏神である妙見を祀った神社と思われる。(宮城県神社庁HPより)



跡地の北部には屋敷林らしきものが残っており、屋敷林の南側には十文字家始祖誌を刻んだ石碑が存在する。書面には十文字家の子孫が、その後帰農し明治初年は仙台に住み、その後東京に移住したと書いてある。



十文字氏は源氏の落ち武者となって生き延び、豪族として此の地に根付いたものの、やがて戦国の世の伊達と相馬の相克に巻き込まれて、滅亡に及ぶかと思われたが、かろうじて落ち延びその後伊達の旗下に属して見事に復活を果たしたようだ。人間は窮地に追い込まれた際、生き残る為に何をなすべきか?を必死になって思考する。これを己に問えば、十文字氏の取った変幻自在とも言える世渡りの術が、ちっとも不自然でない気がしてくるのである。

敢えて優劣をつけるならば、私は名門と言われた滅んだ家柄よりも、手段を選ばずに、強かに生き残った浪人や帰農者のほうに軍配を上げたい。それは先祖代々の血を絶やさず現代に残したからである。然らば、その手法が武士道(二君に仕えず)に反するなどという野暮な批判は控え、その生き様に拍手を贈りたい。

館跡の付近の民家の庭先の桜は見頃を迎えていた。私は中世豪族の夢の跡に計り知れないロマンを抱き、此の地を後にした。

著者挨拶
縁があって、三年前に亘理町に単身赴任し、このような豪族の波乱万丈な生き様を知りました。運命に弄ばれながらも人生に向き合い、後世に血を残した十文字一族のことは、とても書きつくせるものでございませんが、十文字氏の生き様は現代に生きる我々に掛け替えのない教訓を遺したと捉えています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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