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旧盛岡藩士・那珂通高(1827~1879)

1肖像写真

長州藩士吉田松陰(1830~1859 獄中死)

2松陰肖像画

熊本藩士宮部鼎蔵(1820~1864 池田屋事件で死去)

3宮部鼎蔵

【前書き】

久しぶりに歴史関係記事の掲載となる。私は数年前から郷里石巻と吉田松陰の関りが気になっていた。吉田松陰は嘉永5年(1852年)3月16日(新暦にすれば5月2日)に宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)とともに石巻を訪ねている。この時に二人を案内したのが仙台藩士・粟野杢右衛門(あわの もくえもん)であった。


粟野杢右衛門は大番士(番士は平士とも言われ、仙台藩の家格の中では最下層の部だが、大番士ともなると、番士の中のまとめ役で隊長と言ったような役柄)はという役であった。尚、禄高などははっきりしていない。資料によると、粟野杢右衛門(1814~1862)は別の名を道知と称し、後に一平と改めたとされる。


その後凌雲と号し、晩年には酔翁とも称した。南部藩士・那珂通高(なかみちたか 安芸五蔵とも)を心から愛し、妹を嫁がせた。文久2年(1862年)9月29日、没する。享年49歳。墓は仙台市北八番丁江厳寺(先月の3月墓を訪ねたがわからず仕舞)にある。資性闊達にして小事に拘泥せず、勇敢で義俠心に富み、社交的で多くの人々の心を捉えるような人物であったという。


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さて、本日は粟野杢右衛門の妹を娶り、吉田松陰宮部鼎蔵の心を唱えた盛岡藩士・那珂通高について触れておきたい。目的は松陰石巻訪問に関する随筆を書くためである。布石として避けて通れない人物が那珂通高である。参考にした文献は『盛岡市通史』の中の郷土ゆかりの人々である。先ずは略歴を紹介する。


・文政10年(1828年)に盛岡藩医・江帾道俊の次男として生まれる。実父の江帾道俊は最初久保田藩の大館にいたが、藩医になったため、大館から盛岡に移住した。

・弘化元年(1844年)に18歳で藩主・南部利剛( なんぶとしひさ)の近習として仕えた。

・弘化2年(1845年)、遊学の志をして脱藩、江戸に出奔する。

・江戸では安積艮斎(あさかごんすい:朱子学者)や東条一雲に学ぶ。

・その後遍歴を重ね、大和の森田節斎、安芸の坂井虎山などの勤王の志士たちと交流する。

吉田松陰とは特に親しかった。

・嘉永2年(1849年)藩主の擁立をめぐって盛岡藩に内紛が起こり、兄の春庵が反対派の策略で投獄され獄死する。

・嘉永4年(1851年)12月、兄の敵討ちを決意した通高は吉田松陰宮部鼎蔵とともに、12月14日(赤穂浪士の討ち入りを意識して同じ日)に江戸をばらばらに出立し、十日後の12月24日に水戸で落ち合った。

・嘉永5年(1852年)1月27日、水戸で松陰、鼎蔵と分かれの酒を酌み交わし、南部(盛岡)に向かう。

・直接南部には行かず、偽名の安芸五郎を使い石巻の粟野邸に潜伏した。(石巻に潜伏した理由として、往時の石巻には南部藩の米蔵があり、多くの人や物の流れがあり、情報を得やすく、且つ雑踏に紛れやすかったと考えられる)

・この時通高は石巻のことを「石巻も随分遊びによけれども俗地なり」としている。察するに、兄の敵討ちしか頭にない通高にとって、俗人渦巻く港町での雑念は無用だったのだろう。

・その後敵だった田鎖左膳 が失脚(病死とも)したために、兄の敵討ちは頓挫してしまった。

・安政6年(1859年)、その才能を見込まれた通高は盛岡藩校の作人館の教授として迎い入れられた。通高の博識ぶりは広く知れ渡ることとなった。

・戊辰戦争で奥羽越列藩同盟のために画策したものの敗北に至り、新政府により江戸に幽閉される。

・明治3年(1870年)放免された後は大蔵省や文部省に籍を置き、文部省では小学校用の教科書の編さんや『古事類苑』の編さんに携わった。

・明治12年(1879年)5月1日東京で没する。


横町コメント

那珂通高は盛岡藩の俊英であり、エスプリ漂う人物です。松陰は確固たる思想(改革への理念)とともに、人を見る目があったので、こういう人物を選りすぐって交流したと捉えています。(東北周遊においても、俗人とそうでない人物をはっきりと意識した上で行動していたようです)通高は優れた頭脳を持ちながらも時代に翻弄された感は拭えませんが、明治に入ってから大蔵省や文部省で活躍するなど、十分に才能を発揮したと解釈しています。シチュエーションは異なりますが、函館戦争で指揮を執り、その後政治家になった榎本武明なども元幕府側の人物でした。


那珂通高の著物に触れて感じたのは、彼が優れた先見性を持ち合わせていたことです。彼は優秀な儒者でありながら、実践を重んじる気風が強かったと察しております。これは陽明学で言う「知行合一」を強く意識していたのを感じます。


これまで吉田松陰の石巻訪問に関する随筆を書くために、様々な情報を収集して参りました。那珂通高の概略を知り、一気に執筆欲が増してきたのを実感します。通高は兄の敵討ちという目的のため、石巻での松陰の視察には同行しませんでしたが、数日後に松陰と鼎蔵は白石(宮城県南部)で再会を果たしています。粟野杢右衛門を含めた4人の織り成す人間模様をさりげなく、随筆に描ければと考えております。


ちなみに、松陰らが石巻を訪れたとされる旧暦の3月16日を太陽暦に直すと5月2日となります。偶然ですが一年中で一番気候がよい頃の訪問でした。それぞれの脳裏にどんな情感が飛来したのか、今から想像を膨らませています。


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4六百横町
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コメント

こんばんは

幕末の偉人達の関わり合い、勉強させて
頂きました。
通じ合い、惹かれるものがあったので
しょうね。

URL | ichan ID:-

那珂通高の数奇な運命、興味深く拝読しました…。東北諸藩の藩士で、戊辰戦争のとばっちりを受け、一時排斥されたものの明治政府または、その関連で活躍した人物は何人か知っておりますが、やはり優れた人材が多く居たのだと思っております…。随筆の完成、楽しみにしております…。

URL | boubou ID:-

郷土の歴史形成に少なからぬ影響を与えた人物には、深い関心を抱かずにはいられないものです。
横町さんの執筆が順調に進みますようお祈りいたしております。

ichanさん、ありがとうございます。

おはようございます。しばらく歴史関係の記事から遠ざかっていたので気になっていたところです。随筆を書くには足場固めは不可欠ですが、那珂通高はキーマンと認識しております。吉田松陰がどんな人物と付き合っていたのか?改めて理解できた気が致します。

本日も格別なる追い風を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

那珂通高は松陰の石巻訪問に同行しませんでしたが、石巻市史にその名を刻んだ人物(兄の敵討ちをする為に潜伏)でした。残念なのは妻(粟野杢右衛門の妹)のことを書いた資料が見当たらないことです。謎も多いですが、ここに想像が働く余地があると考えています。

敢えてカテゴリーを「儒者の研究」とさせて頂きました。それは那珂通高が儒者でもあったからです。幕府側(奥羽越列藩同盟)の人物という枠はあったものの、明治になってからも活躍したところに救いを感じます。ご配慮により、本日もお志を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

声なき声さん、ありがとうございます。

昨日図書館(メディアテーク仙台)で『盛岡市通史』を閲覧(貸出し禁止)して参りました。その中に那珂通高の肖像写真を見つけ、ブログに掲載することで、インターネット初公開となるのを意識しました。ちなみに、肖像画はあるようです。くどくなるといけないので写真のみとした次第です。

激動の時代に弄ばれたかのような人生に惹かれるものを感じました。我ながら執筆欲の向上に繋がったのは何よりと考えています。同時に生前の松陰がどのような人物と関わったのかも理解できた気が致します。ご配慮により、本日も格別なる追い風を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

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