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 NHK大河ドラマ 独眼竜政宗 オープニング 


【コラム】
今日5月24日は仙台藩祖・伊達政宗公(1567~1636)の命日である。政宗公の霊を弔う意味で、自分が普段から思っている政宗像を主に記事を書きたい。先ずはこの肖像画をご覧頂きたい、下膨れのよく知られた政宗公とは別人とも思えるが、隻眼で描かれたこの像こそが実像に近いのでは?と考えている。私は壮年期に描かれた隻眼の政宗公こそが、野心に生きた最後の戦国武将という気がしてならないのである。

政宗公の凄いところは天下取りを諦めた後の変わり身の早さである。主君は豊臣秀吉~徳川家康と変わったが、次に天下を取る武将についての誤りはなかった。その生涯を知れば知るほど、先見性と類まれなる叡智を持ち合わせた武将という印象を強めるのである。しいて言うのならば関ヶ原の戦いにおいて、どさくさに紛れて隣国の南部藩に攻め入ろうとした魂胆を徳川家康に見抜かれたことが悔やまれるが、そのあたりは、敢えて有り余る野心が空回りしたという見方をしたい。

1座像

画像は政宗公が眠る青葉区の瑞宝殿である。伊達政宗は寛永13年5月24日に亡くなった。これを太陽暦に直すと1636年6月27日となり実際の暦とは一箇月近いずれを生じるのだが、そのへんは大目にみたい。本日は仙台伊達家18代の伊達泰宗さんを始めとした家臣団の末裔(仙台藩志会の面々)が供養に訪れている。

2瑞宝殿

自分のルーツ(O家)は伊達家に深く関わっている。川村孫兵衛重吉(長州出身の優秀な土木技術者で、関ヶ原の戦い後、浪人となっていたのを政宗公に見い出された武将)について、北上川開削工事に携わったという代々の言い伝えがある。

そういう事情もあって、本日は政宗公の供養をと思い、清酒独眼竜政宗を頂いている。

3清酒

政宗公の漢詩をお伝えしたい。「図南の鵬翼 何れの時にか奮わん 久しく待つ 扶揺万里の風」である。かつて仙台市立仙台図南萩陵高校という学校があったが、その校名の由来となったのが、この詩と思われる。

また高校野球の名門校仙台育英高校の校歌(加藤利吉作詞)の歌い始めに「南冥遥か天翔る鴻鵠棲みし青葉城…」という歌詞があるが、この歌詞も「図南」同様に、若かりし頃の伊達政宗が南方に野望を抱いたことに由来するのでは?と考えている。

論拠としては政宗が母方伯父の最上義光に宛てた手紙の中で「南東北を制覇した後は、関東までもた易く手に入れてみせます」と述べている点である。この頃の彼は名門蘆名氏を滅ぼしたばかりの怖いもの知らずで血の気の多いものを感じるが、ただがむしゃらなだけでなく、北条氏と手を結んで豊臣秀吉と対抗しようとする強かな生き様も浮彫りになってくる。伊達政宗という武将の生き様を今振り返るならば、豪放磊落とも言えるが、策略に策略を重ねての際どい生き残り術の繰り返し(権謀術数)であった。

4出陣じゃー

横町コメント
皆さんは仙台人というとどんなイメージを抱かれるでしょうか?現役時代に東北各地に出張に行くと「仙台の人間は険しい」とか「計算高くて都会ずれしている」とか、あまりいい評判を聞きませんでした。このあたりは伊達政宗公の生き様が影響している気が致します。

過去において、50に達しようとしていた自分に試練が降りかかりましたが、伊達政宗公の生き様に触れることによってサラリーマンとしての生き残り術を自覚し、逆風に屈することなく無事に定年退職を果たしました。

その企業には印籠を渡し、再雇用を断るとともに、セカンドライフでは新たな境地を切り拓き、全くコネのない企業に就職しました。その後は安全管理という仕事に携わって、既に数年が経ちました。自分にとっての政宗公は心の拠り所と言えます。今だから言いますが時に成り切ったこともありました。それはサラリーマンとして生き残り、最愛の家族を守るためであり、ルーツの血を引き伊達者の端くれとしてどう生きるべきか?の自問自答への答えでもあります。

政宗公の命日を迎えた本日、改めて政宗公に敬意を表したいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。
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5六百横町
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コメント

こんばんは

伊達政宗公の命日でしたか。
先見性、胆力等に富んだお方。
俗にも言われていますが、生まれが
早ければ、歴史が違っていただろうと
言うこと、あながち間違いでは無いと
思います。

URL | ichan ID:-

伊達政宗公の命日になのですね…。
歴史に疎い私ですが、貴兄のブログで少しは勉強いたしました政宗像では、大胆と熟慮の両方を持った人物と理解しております…。
思えば、貴兄も大胆と熟慮より、50代の災難を乗り切られたのですね…。

URL | boubou ID:-

ichanさん、ありがとうございます。

おはようございます。地場贔屓、政宗公贔屓の記事になったことは命日に免じてご容赦ください。おはからいにより、本日も格別なるエールを賜りました。

ご配慮に感謝申し上げます。コメントを頂きありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

ごく一部ですが「伊達政宗は天下を取ろうなどという下心はなかった」とする向きがございます。これを完全否定はしませんが、その生涯を調べれば調べるほど、そのような思考(真剣に天下取りを考えた)の後が次から次へと出て参ります。

壮年期を過ぎたあたりから、幕府には武力でかなわぬから、経済力で対抗しようと考えた節が窺えます。支倉常長率いる遣欧使節団の派遣や北上川流域の水田開発です。おそらく心の奥底にはギラギラしたものがあり、時の権力者にはそれを悟られまいと懸命に努めたものと察しております。

恐れ多くも自分は政宗公に成りきることで、50前後から定年に至るまでの様々な確執と軋轢を乗り越えた経緯がございました。それだけに、命日には書かずには居られない。昨晩は帰宅してから酒を飲み、往時の名君に思いを馳せ、追悼のつもりで記事を綴った次第です。そうおっしゃって頂き記事を書いた甲斐がございました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

24日が伊達政宗公の命日であったとは、記事を読ませていただくまでは存じておりませんでした。
仙台のかたがたにとっては、特別な意味合いを持った日であったと思います。

声なき声さん、ありがとうございます。

政宗公を心の拠り所とする自分にとって、昨日は特別な意味合いの日です。「能ある鷹は爪を隠す」それを生涯に渡って貫いた武将が政宗公と認識しております。

そうおっしゃって頂き記事を書いた甲斐がございました。今後も政宗公の生き様を念頭に置き、セカンドライフを歩んで参ります。

お陰様で、今回も格別なる追い風を頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。コメントを頂きありがとうございます。

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