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童門冬二著「本間さまの経済再生の法則」荒筋
童門冬二氏は単なる歴史作家ではない。Wikipediaによると東京都庁在職中は、美濃部亮吉都政3期12年を知事のスピーチライターとして支え、都庁首脳として活躍したという。それだけに政策通であり、政治に対して鋭い視点を持った人物である。そんな童門冬二氏が着目した庄内の大商人・本間光丘とはどんな人物だったのか?彼の前に立ちふさがる江戸時代の身分制度(士農工商)を含めて本日は同著への読後感想を語ってみたい。
本間光丘(1733~1801)


光丘の話を進める前に、本間家が庄内酒田に住み着いた背景について触れる。本間家の本家は酒田三十六人衆の一人とされる。酒田三十六人衆とは奥州藤原家の縁者・徳姫(岩城に嫁いだが、夫の岩城氏は源頼朝に滅ぼされ、家臣とともに庄内酒田に逃れる)に従い、酒田に移り住み、刀を捨て商人となった集団である。光丘は五代目の本間原光が分家した系統であり、分家後の三代目にあたる。本間家の分家が大富豪になる課程として、借金の担保にとった土地の取得が挙げられる。

ここまでは明治時代における津軽の太宰治の生家(津島家)と何ら変わらないが、彼の農への土地の貸出の特徴は
①返済計画のない者には土地を貸さない。
②五十年、百年という長期期間に渡る土地の貸出も行った。
ことである。
返済される宛のない金は貸さない。彼は冷酷までな現実主義者だったが、一方で、勤労を尊ぶ誠実な者の味方になるという恩情も持ち合わせていた。こうして彼は独自の揺るぎない倫理を持ち、破格の勢いで豪商に登りつめていった。ちなみに彼の出身は越前、佐渡、相模など諸説が存在するが、どれが本当なのかは定かでない。何れにしても彼は庄内から見ればよそ者ということになる。
そんな光丘は或る日、七代藩主酒井忠徳から呼び出された。

酒井忠徳(1755~1812)
※以下Wikipediaより引用
明和4年(1767年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし藩財政窮乏により、江戸から本国に帰国するとき、その経費すら調達できず涙した、というエピソードが残っている。このため、藩財政再建を目指して豪商・本間光丘を登用して財政改革である「安永御地盤組立」を行なった。この改革は節約などを主としたものであり、9万両の借金全てを返還し、逆に1480両の蓄えを築くに至った。

安永2年(1773年)12月に従四位に叙任する。天明3年(1783年)の天明の大飢饉では餓死者を出さなかった。しかし寛政期頃から藩財政が悪化し始め、10万両の借金を築くに至った。このため、再度の藩政改革を行なって農村復興や文武の奨励に尽力し、文化2年(11805年)には藩校・致道館を創設した。文化2年(1805年)9月25日、長男・忠器に家督を譲って隠居し、文化9年(1812年)18日に58歳で死去。

忠徳は先に行われた砂防林建設(光丘は酒田の砂防林に莫大な投資をして1762年の第一次工事を完遂させた)への礼を述べるとともに、藩の財政再建を頼まれた。この頃の庄内藩は酒井忠寄(庄内藩五代藩主・幕府郎中・1704~1766)の敷いた名門ありきの「武家文化のしわ寄せによる散財」に苛まれた時期でもあった。庄内藩の経済はすっかり疲弊し、忠徳は豪商である本間光丘の力を借りなければ、庄内藩の経済復興はないと考えたのである。

実は光丘は忠寄の代に既に三千数百両(現代の貨幣価値に直すとざっと4億~5億円)にも及ぶ献金を行っていた。光丘は忠寄の代の財の流出を「人災」と考えた。その反動として、農民や商工業に従事する領民は年貢や運上金を増徴され、城の武士たちは給与を半減され生きがいを失っていた。光丘は武士の官僚主義が嫌いだった。但し、光丘は忠徳の実直さに惹かれ、条件付きで財政再建を引き受けることにした。その条件とは「改革の権限を自分に一任して欲しい」という内容だった。

この時代は士農工商の時代で、光丘の申し出を受けることは庄内藩は一商人である本間光丘の管理する国となり、光丘の申し出を受け入れれば領内の大名や家臣たちは実質的に光丘の風下に立つことになる。忠徳は考えた末に光丘に「御小姓格」という肩書きを預け士族の末席に任ずることにした。この頃の庄内藩は大津(近江)商人から多額の借金があった。

これを返済する具体策として
①光丘自身の用立て。(多少の資金)
②庄内藩の来年の米の収穫を担保にして、農民への年貢の増徴は行わない。
③庄内藩士の給与を下げて資金を捻出する。
④農民への土地を担保にした長期返済(50年、100年)での貸付。
を唱えた。

「土地や金は返す意思のある者にのみ貸出して、返す意思のない者には貸さない」…、こうした光丘の姿勢は評価をされながらも、一方で悪徳地主呼ばわりもされた。金貸しを断られた武士たちは本心で「百姓は国の宝」を理解していながら、光丘を恨むことさえあった。そうこうしているうちに時代は田沼意次(1719~1788、幕府旗本~大名~老中となり改革を行うが、賄賂政治などの専横的な手法が見られ評価は分かれる)の政治から松平定信(1759~1829、8代将軍徳川吉宗の孫・大名~老中、前任の田沼の志向を改め、朱子学を重視し寛政の改革を行う。重農主義を掲げた新田開発で米将軍とも呼ばれる)の時代に変わった。

老中・松平定信に対して、光丘のやりかたに不満を持っていた庄内藩士の一部から「藩主・忠徳が一商人と結託して藩政を思いのままにしている」という直訴状が出された。幕府から逆風を受けた忠徳は光丘を呼び、止むを得ず解任を告げた。光丘のやりかたに不満を持っていた武士たちは、その政策を全て否定し我々の責任において新しい復興策を掲げ、実行すると述べた。こうして光丘は藩政の場から身を引くこととなった。光丘はちっとも悪びれていなかった。それどころか「これからは家業に専念できる」と思い、逆に清々した。身分制度の分厚い壁に阻まれた形になった光丘の庄内藩への経済改革推進だったが、「つまらぬ面子よりも内容のほうがずっと大切」と思ったのである。

読後感想
庄内には「本間さまにはおよびもせぬが、せめてなりたや殿様に」という言葉がございます。この言葉自体が本間家の莫大な財力と庄内藩への多大な影響を感じるわけですが、江戸時代の士農工商にという身分制度は如何ともし難く、本間光丘の藩政改革は松平定信の布く儒教重視、重農主義の前に中途半端で終わった気がします。本間光丘が生まれた頃には、既に河村瑞権(1618~1699)の携わった西回り航路が整備され、庄内酒田は日本海側の一大貿易港として脚光を浴び栄えていました。光丘はそのような追い風にも恵まれ、庄内きっての財閥としての位置を固めて行きます。

本間家の財力は確かに並外れたものがあったわけですが、プライドの高い武士から見れば財力、イコール権力と認めたくない時代でもありました。そんな時勢にあって光丘は藩主・酒井忠徳と上手く立ち回り、庄内に於ける大商の地位を確固たるものにしたと捉えています。明治維新の際、奥羽越列藩同盟の中で庄内藩の武器は際立っていたといいますが、これは紛れもなく本間家の財政支援があったからです。最後に、本間光丘について、ここまで書く気になれたのも、「本間さまの経済再生の法則著者」を読むに至ったもの、酒田在住のブロ友様・つや姫様の存在に他なりません。つや姫様にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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