fc2ブログ
いよいよ五月も今日で最後である。五月晴れ、薫風と清々しい語感を漂わせる五月だが、必ずしもそうでないイメージがある。五月闇とは五月にも関わらず、気温が上がらず日照に乏しく小雨や霧に見舞われた暗くて肌寒い日を指すということだが、自分はここに東北のやませ(東北の太平洋沿岸部の農作物に冷害をもたらす冷たい風)を重ねるのである。

1五月闇

それはさておき、著者の紫桃正隆氏(1921~2008)の略歴を紹介したい。彼は石巻近辺の公立の中学校や高校で教鞭を執っていたが、作品の多くは現役の教師時代に書かれた。休みを返上しての現地取材と執筆で、これは特筆に値するものを感じる。

宮城県石巻市(旧河北町)生まれ 作家 史家。
宮城県教育文化功労賞(平成6年度)
第45回河北文化賞(平成7年度)
「戦国大名葛西氏家臣団事典」
「みやぎの戦国時代・合戦と群雄」
「政宗をめぐる十人の女」など約40巻の著作を残す。

2紫桃正隆氏

伊達政宗の野心(関ケ原の戦いのどさくさに紛れて隣の南部領に攻め入り領土を奪いたい)が和賀氏の思惑(豊臣秀吉の小田原攻めに参加せずに領地を没収され、その後政宗に抱えられ、旧領地の奪還を謀りたい)と合致したのである。こうして政宗は水面下で領土の拡充を謀っていた。和賀家は全盛時は六万八千石余の大身の戦国大名であった。

ところが事態は急転を見る。天下の行方は徳川家康の優位に推移し、和賀氏は家の再興のため伊達政宗の支配下に入った。慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦の余波が東北にも及び、反徳川の上杉方が山形の最上氏を襲った合戦が起こる。

政宗は、山形への応援で国境の警備が手薄になった南部藩領を忠親に侵攻させる。だが、忠親率いる和賀軍は敗退。自らの策略が明らかになることを恐れた政宗は家康の追及を恐れて忠親を処刑したとされる。

※画像:己の命と引き換えに政宗への忠節を遂げようとする和賀忠親(1987年NHK大河ドラマ第38話より)のスタンスは「独眼竜政宗」の原作者である山岡荘八によるものであり、紫桃氏の見方とは見解を異にするものである。

3和賀忠親

家臣とともに討たれた(或いは自刃?)した和賀忠親は、現在七人の家臣とともに、仙台市宮城野区の国分尼寺に眠っている。

4墓所

横町コメント
本日は五月の晦日にちなみ、五月でないと書けない記事を書きました。生き残った伊達政宗の陰で滅亡した和賀忠親ですが、毎年五月になりやませを思わせる肌寒い日が来ると、忠親の不遇な生涯を重ねます。伊達家の生き残りと引き換えに失われた和賀家の家運に、”盛者必衰、栄華など五十歩百歩”を重ねる次第です。

本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。クリックして頂ければモチベーションが高揚します。宜しくお願いします。
 ▼▼▼

5六百横町
関連記事

コメント

こんばんは

戦国末期の生き残りのためには政宗公を
しても難しかったのですね。
現代社会にも通じるものがあります。

URL | ichan ID:-

徳川氏の安定政権樹立までの間には、戦国時代ほどではないにせよ、いろいろな権謀策略があったのでしょうね…。
私は歴史に疎いのですが、今の大河ドラマを見ても、鎌倉政権樹立までの暗黒史を見てもそう感じます…。

URL | boubou ID:-

ichanさん、ありがとうございます。

おはようございます。五月最後の日と言うことで、昨晩は五月でないと書けない記事にこだわりました。戦国武将としての生き残りをかけ、一度忠誠を誓った武将を斬る(或いは自刃に追い込む)のは、さしもの政宗公でも苦渋の決断があったのでは?と捉えています。

紫桃正隆氏著『五月闇』を読んだ時は非常に暗い気持ちになったのですが、それだけ生き残りことが難しい時代であったと振り返っています。歴史を知ることは「温故知新」でもございます。貴兄の趣旨、自分もまさに同感とするところです。

お陰様で、本日も有意義な御意見を賜りました。おはからいに感謝しております。コメントを頂きありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

山岡荘八氏と紫桃正隆氏の見解は異なりますが、どちらも在り得ると自分に言い聞かせています。まさに食うか食われるか、弱肉強食の世界そのもので、作品を読んだ際は信じたくない(政宗公がそんなことをするはずがない)という気持ちが強かったです。然るに、往時の情勢を考えれば、このような謀略は日常茶飯事だったと受け止めております。

NHKの「その時歴史が動いた」はよく見ましたが、大河ドラマで観たものと合わせることで、少しだけ立体感が増すような気が致します。ご配慮により、今回も格別なる追い風を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

歴史上の事件をめぐっては、人によって見解が分かれることは珍しくありません。
伊達騒動にしたって、評する人それぞれで全く評価が異なっています。
記事で取り上げられた事案にしても、現代に生きている人間には正確な分析はむずかしいのではないかという気がしてなりません。

声なき声さん、ありがとうございます。

真偽のほどは定かでないですが、概ねこの時代の武将がどんなものであったのかを窺うことができます。謀略、騙し討ちの類はざらにあった時代と受け止めております。著者のつけた「五月闇」という命名が当初はどうしてもピンと来なかったのですが、今となってその意味が理解できる気が致します。

即ち、政宗公としては「闇に葬りたい」という意図があり、それを著者はくみ取り、暗喩したものと解釈しています。おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

コメントの投稿

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)