fc2ブログ
 Gioacchino Rossini - La gazza ladra - Overture 
リンク曲について
自分は最近クラシックをリンクさせることが多くなった。これは音楽の価値観を新しい古いという観念で決めないという意思表示に他ならない。それは音楽だけでない。自分は他人の動向に流されることなく、何事もアイデンティティをもって臨みたいと考えるのである。だからと言って融通の利かない堅物でいいと言っているわけでない。礼にしても仁にしても何事も節度をもって臨みたい。節度は自分の目盛りを基準として決めざるを得ないが、その目盛りを少しでもパブリックに近づけたいのである。

本日リンクしたロッシーニの La gazza ladra - Overtureは、二月の三連休を前にして聴くのに十分価する名曲と察しリンクに及んだ次第である。もちろんこれに酒を合わせている。「虐げられても屈しない」を合言葉に五十代前半から還暦まで生きてきたが、無事に定年退職を果たし、セカンドライフを歩む自分にとって今更肩肘を張ることなどない。楽に行けば自ずと道は開ける。今はそんな鷹揚な気分で週末の美酒に己の感性を委ねている。

世には様々な人生がある。順風満帆ならいざ知らず、一度大きな挫折を経験した自分にとって、セカンドライフの新たな船出は想定外の付加価値である。然らばその付加価値を心行くまで味わい、中味の濃いセカンドライフとしたい。幸い、自分は執筆活動で多大なモチベーションを得ている。今のところ顧客からのニーズもある。これによって仕事とプライベートの絶妙なバランスがもたらされている。自分は顧客の期待に応えつつ、己に残されたポテンシャルの発掘に挑みたいと考えているのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
何を隠そう。私は現役時代、木枯らし紋次郎に成り切ったことがあった。木枯し紋次郎は笹沢左保による創作の中の人物であり、実在した人物ではない。但し私はその紋次郎から多大な影響を受けた。それは上州長脇差と言われる渡世人の精神を受け継いだからである。上州長脇差を名乗るに必要な度量は
腕っぷし
②度胸
③反骨精神
④礼儀作法
である。
これらのどれかが欠けても上州長脇差とは言えない。特に④の礼儀作法のない渡世人は単なる無頼漢と何ら変わりないものである。何を隠そう私はサラリーマンとして窮地に立たされた時、彼の生き様にヒントを見出してそのピンチを凌いで生き残りをはかってきた。私は人との軋轢を厭わない武骨者なれどならず者に非ず。そして何といっても仁義、礼儀作法にこだわるゆえ、彼との類似を見出したのである。自分は五十代後半に礼節のない人間を一刀両断にした。どうせ渡世人と言われるなら半端者に終わらず、上州長脇差と言われたいと思ったからである。

木枯らし紋次郎には続編がある。三十代となり、数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼の容貌には風格と貫禄、そして凄みが加わっていた。仁義のためならいつ果ててもいいと思う渡世人の心は侍の主君への忠節とも似ている。紋次郎は常に死と隣り合わせである。人間は利害に捉われがちになるが上州長脇差とともに生きる紋次郎にあるのは仁義のみである。そんな彼にとって堅気の世界に身を置くさえ、ままならぬことだったのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
横町挨拶
以前の自分はゆえあって、紋次郎同様に渡世人の世界に身を置いたことがございました。命を懸けなければ倒せない相手と抗った所以です。己の命と引き換えに家族が助かれば、それでいいと考えたこともございました。そんな時、私は堅気の世界に戻ることに憧れたものです。数年前に命を懸けた死闘はようやく終わりを告げ、堅気に戻ることを決めました。それから暫く経ちましたが、今でも懐刀(長脇差)だけは手放しておりません。

セカンドライフに入っても一部の人間はそれを悟り、自分と距離を置いているのかも知れません。堅気になったつもりでも、無意識のうちに長脇差が手放せない。それ自体矛盾に満ちたことなのかも知れません。これから数年掛かって長脇差を捨てられるのか、それとも死ぬまで捨てられないのか?今宵はそんな取り止めのないことに想いを馳せながら、三連休前の酒に酔っています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)