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私が中世豪族・十文字氏の館跡を訪ねたのは2015年4月28日のことだった。館があったとされるのは宮城県南部の亘理町の逢隈十文字地区である。私はこの年の4月から相馬転勤となり、亘理町にアパートを借り単身赴任生活を始めたばかりの頃であった。

実は、4月28日にブログにアップしてから一年以上経た昨年の1月、近くに住まわれるさくらパパ様からコメントを頂いた。なんと滅ぼされたとされる十文字氏は宮城県北部の遠田郡涌谷に移封されたという情報であった。そして昨日(2018年1月6日)さくらパパ様から二度目のコメントを頂いた。

その内容は驚くべきものであった。涌谷に移り住んだとされる十文字氏はその後東京に移住し、末裔のかたが私学の十文字学園を経営されているというのである。本日は2015年4月に撮影した写真を掲載し、つわものどもが住んだ跡地を偲びつつ、十文字氏の歩んだ軌跡にスポットを当ててみたい。

南東部から撮影した十文字館跡。防御の手薄な平城ゆえ、恐らく往時は水濠が周囲に巡らされていたと推察する。

ほぼ南から撮影。屋敷林のような左の林の手前に石碑と墓標、僧侶と思しき石像が建っている。

北東側からのアングル。石碑や墓標は右の木立のところに位置する。

館跡の西側には十文字神社がある。十文字氏を祀った神社と思われる。

石碑と墓標らしきもの。

石碑の上部には「十文字家始祖誌」と刻まれている。

木立の下には僧侶らしき石像もある。ここで中世豪族・十文字氏の始祖について触れておきたい。(以下「ふるさと亘理 歴史の散歩路」より引用)源義経の家臣であった渡辺綱の子孫と言われる源左衛門綱安が衣川の戦いに敗れて落ち武者になってこの地に根つき、地名から十文字(道が十字型に交わる)を名乗ったと伝えられる。

最近の研究では武石氏(亘理氏:相馬氏の祖であり源頼朝に仕え、奥州藤原征伐で武功のあった千葉常胤の三男)の一族とも言われ、一時は相馬氏と結びその同盟の証として、各地に現亘理町各地に妙見社を建立したとされる。相馬氏の庇護の下、一時は栄華の兆しを見せた十文字氏であるが、その後伊達氏による伊具奪回などの巻き返しが始まり、一気に旗色が悪くなる。そして1585年に伊達成実(伊達政宗の従兄弟)に滅ぼされ、末裔は帰農し、宮城県北部の涌谷に移封されたという。

十文字氏の末裔には十文字大元氏という著名人も居られる。

十文字大元(1868~1924)
涌谷藩(仙台藩の支藩)師範・十文字秀雄を父に陸奥国涌谷(宮城県)に生まれる。東京に出て、明治37年金門商会(のちの金門製作所)を創立し、日本で初めてガス・水道メーターを製造・販売を行う。一方で自彊術の開始者・中井房五郎により脊髄病を治療して以来、大正5年から自彊術の宣伝・普及に努め、多数の共鳴者を得た。また明治30年東京神田の錦輝館で、初めて活動写真が公開された際に、この説明を試み、映画の活弁の始まりと言われる。兄に政治家・実業家の十文字信介がいる。

十文字学園
十文字大元氏は大正131221日、57歳で逝去しているが、十文字氏が創始した会社は現在も続いている。十文字学園(東京都豊島区北大塚1-10-33)は、十文字氏の妻・こと氏が大正11年に(前身は文華高等女学校)創立した。こと(旧姓は高畑)氏は、女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)を卒業、京都府尋常師範学校女子部(現在の京都教育大学)の教諭、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(相模女子大学)教諭を勤めている。夫の大元氏が、全国規模で普及活動を行っていた自彊術による体操を、学園の身体教育に取り入れ、現在も同校では朝礼後に、十文字学園伝統の自彊術体操が行われている。
挨 拶
私は2015年4月28日に十文字館に関する情報を求めることを記事に書きましたが、さくらパパ様のご協力で十文字氏のその後が一部解明し、大変感謝しています。こういうことを踏まえた上で歴史関係の記事を更新する際は、これからも広く情報の提起を呼びかけてゆく所存です。最初は単なる点にしか過ぎなかった史跡が、情報を得ることで線に進化する。改めまして、歴史の醍醐味はこのようなところにあるのだと認識しています。史実の積み重ねが進むと、エッセイ執筆の題材としても事欠きません。そういう意味で大変大きな進展と収穫のあった今回の十文字氏に関する情報でした。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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