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本日は週の中休みを利して、文芸誌「みちのく春秋」への寄稿のための取材を行った。向かった場所は宮城野区の宮千代地区である。先ずは最初の目的地である鈴虫壇に着いた。仙台東ロータリークラブ発刊「詩歌の宿 心の宿 宮城野」によると、安永年間(1772~1780)の地誌『残月台本荒萩』に「榴か岡の東に広き野あり、これを宮城野原という」との記載があり、「東は海辺まで」とされる。往時は沖積でできた広大な荒野一帯こそが宮城野原であった。多くの野草に混じって萩が繁っていたが、この萩こそが宮城野萩(宮城県の県花)と言われるものである。平安時代から江戸時代にかけて宮城野原は萩の名所であった。

時代が進んで明治29年(1896年)に仙台の名掛丁に移り住んだ島崎藤村によると、往時は現在の仙台駅の近く(藤村の下宿は現仙台駅の東口)まで荒浜海岸の波の音が聞こえる日があったと言う。現代では想像すらできないが、それだけ遮るものがなかったのだろう。

画像は南宮城野公園である。ほぼ中央の二棟の建物は鈴虫荘(A棟、B棟)となっていたが、鈴虫壇にちなんで命名されたアパートらしい。

1公園から見た説明書きと鈴虫檀

手前の南側がA棟、奥がB棟である。鈴虫壇があったのは撮影地点から見て、アパートの裏側になる。

2鈴虫荘A棟・B棟

Google3D立体画像で南宮城野公園鈴虫壇の位置を確認して頂きたい。

3Google3D立体画像

鈴虫壇についての説明書きが公園の西側(鈴虫荘B棟とは道路を挟んで向かい側)に設置されていた。説明書きに書かれていた鈴虫壇のあった場所は画像の右側の交差点の辺りであった。

4説明書き

鈴虫壇があったのは電柱が建っている交差点である。左側には昭和紙工という企業がある。その駐車場の辺りが鈴虫壇の一部となっているようだ。レファレンス協同データベースの資料によれば、壇の大きさは三間四方程度であったとされ、「オタチ」(意味はお立ちか?)と呼ばれたとされる。

5紙工駐車場の辺りが鈴虫檀

南宮城野公園の説明書きによると、鈴虫壇は「仙台城から姫君たちが訪れ、緋毛氈(ひもうせん)を敷き紫のまん幕を張り」と書かれている。宮城野原を見渡せるような壇を盛り、幕を張った中で弁当を広げ茶を愉しみ鈴虫の音色に興じていたという。仙台城や一本杉のお屋敷からはお姫様だけではなく、殿様や奥方も訪れたということである。

さぞかし楽しみにしていたのではないだろうか。お屋敷の中にばかり居たのではストレスも溜まったのだろうが、姫君たちにとっては優雅な行楽と言えそうだ。ちなみに、伊達藩は代々宮城野原を禁野(動植物の禁漁保護区)に定め、監視役の野守(永野家)を置いていたという。

6説明書き拡大

下の絵は奥州名所図会(仙台大崎八幡宮の神宮で和歌、俳諧などの文芸にも一家をなしていた大場雄淵[宝暦8年:1758年~文政12年:1829年 ]によって書かれた詳細な文章と細密な絵図が描写された著)の『宮城野の鈴虫』である。雄淵が実際にその様子を見て描いたのか、それとも人伝てに聞いたことを想像で描いたのかは謎である。現代で言えば、神職兼画家兼ライターといったところか?

7奥州名所図会・宮城野の鈴虫

この後、榴岡市民センターに行って、付近の史跡のパンフレットを頂いた。館長さんと話をして、鈴虫壇のことに話題が移った際、「当館では鈴虫を飼育しているので、良かったら鳴き声を聞いてみてください」と言われた。

まさに鈴が鳴るような音色で、仙台城の姫君たちが夢中になるのも無理はないと思った。鈴虫の寿命は四五箇月で十月頃には死んでしまうという。儚さを感じるが、同時に「一寸の虫にも五分の魂」も重ねた。

8鈴虫拡大

横町コメント
本日はこの他にも、目と鼻の先にある宮千代塚や榴岡公園(文治の役で藤原軍による鞭館が設営された所)にも足を延ばしましたが、ボリュームの関係で、次回以降に掲載を延ばしたい所存です。鈴虫との触れ合いですが、姫君ということでおつきの者も多かったのではないでしょうか?

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