fc2ブログ
 パイプオルガン演奏 バッハ 主よ、人の望みよ喜びよ 
随筆「今年一年を振り返って」
2018年も間もなく暮れようとしている。光陰矢の如しと言う言葉があるが、今年ほどこの言葉を如実に感じた一年もなかった。本日は大晦日に相応しい曲を探し、YOU TUBEをいろいろとあさっているうちに、荘厳なパイプオルガンの演奏によるこの曲と出遭い、運命的なものを感じた為、リンクを決めたものである。

本日はバッハ作曲の格調高いこの曲の旋律に酔い、過ぎ去りし己の一年を振り返ってみたい。私が前の会社を定年退職したのはちょうど一年前の2017年12月31日、その時の心境は正にこの曲の題名と同様に「喜びと望み」に満ちたものだった。それは五十代を目前に精神病を患った私が苦闘と戦い、難産を経ての定年退職だったからである。仔細をこの場で述べれば長くなるので、事情をお知りになりたいかたは書庫の「中編小説 我が後半生と武士道」を参照願いたい。

精神病で信頼も人脈も失った私にとって、その二つ以外に去って行ったものがある。それは「人として失ってならない尊厳」である。尊厳を取り返す過程において、自ら孤高を求めるあまり孤立無援となった私を救ったのが武士道であり、その基盤となるのが儒教思想である。時に侍(仙台藩士・支倉常長、同・大内定綱)に成り切り、周囲から奇異な目で見られたことも昔の語り草になりつつある。前の企業で私が噂となったのは数年間の間であり、私の存在など既に過去の人になりつつあるのである。

少し具体的に話そう。私は現役時代に人を役職によって差別する人物に遭遇し、自然に挨拶が出来なくなったいきさつがあった。大変残念なことだが、自分から挨拶をしないことで自らの権威を振り回す人物が存在したからである。私はこれに対向するために武士道を学んだ。武道(相撲、柔道、剣道など)の試合を見ると、挨拶はごく自然に為され、上位者、下位者の区別などなく、両者対等に行われる。ところが一部の不届き者は自分の役職を鼻にかけ、高飛車な姿勢に出たのである。一度は閉口した私だが、或るきっかけがあってそんな輩と逢ってサシで話す機会があった。その時彼は「儒教などという言葉も存在も知らない」と語っていた。ここまで話せば、私が何故その礼節を知らない無頼漢に勝利したかおわかりだろう。

私は無宗教だが、一部に儒教を宗教とする思想があるのなら、これに当てはまるのかも知れない。但しそれは人様が自分に対して思うことであって、自分の中での儒教はあくまで「哲学」である。私はこれからも儒教を自分の中核に据え、残された人生を迷うことなく進んで行くことだろう。私は窮地に陥った際に儒教に救われ、再び日の目を見た。然らば、これからも儒教に生き、儒教に死す。これが私の求める将来への理想である。

話は変わるが、「慇懃無礼」という言葉がある。これは私が尊敬する伊達政宗公の儒教の解釈に対してのお言葉でもある。礼節も過ぎれば却って無礼となる。人の感性は百人百様ゆえ、礼節の加減と言うのは非常に難しいものがある。言われてみればここ数年「慇懃無礼」が祟り、私のもとを去っていった御仁が何人かあった。「慇懃無礼」とならない人付き合い。これは今後の私の課題と受け止めている。

これを新しい職場に当てはめるならば、ベテラン社員、中堅社員、若手社員とでは微妙に接し方が違うと考えている。即ち、ベテラン社員になればなるほど、尊敬や畏敬の念が求められ、若手には親しみを以って接する。こうすることでより濃い親密度が得られると考えるのである。そういえば、或るブロ友様から「臨機応変な対応も裁量のうち」と言われたことがあった。今の自分に不足しているのはこのあたりかも知れない。私はこれを目の前の課題と捉え真摯に取り組んで行きたいと考えている。

最後に孔子の弟子たちが晩年の孔子の生き様について語った印象深い言葉を記したい。「先生は年老いても日々研鑽に明け暮れ、自分が老いたという憂いなど少しも周囲に感じさせませんでした。」私はこれこそ生涯学習の根本となる姿勢と認識している。これぞ今の私が目指すべき境地である。

筆者挨拶
ブロ友の皆様、今年も大変お世話になりました。私が今日までブログを継続できたのは偏に皆さんのお陰でした。改めまして、来年も宜しくお引き回しのほどお願い致します。それでは皆さん、良いお年をお迎えください。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)