fc2ブログ

  伊達政宗、百万石への挑戦  



リンク動画について

本日紹介する歴史作家がゲストとして出演したYOU TUBEスレッドをリンクした次第である。波乱万丈な生涯を送った伊達政宗だが、彼を上回る宮城県人は残念ながら死後400年近くを経ても現れていない。さてこの番組にゲスト出演した作家は長部日出雄氏である。


つい最近尊敬する二人の歴史作家の死を知った。一人は星亮一氏(仙台市出身 1935~2021)、もう一人の名は長部日出雄氏(青森県弘前市出身 1934~2018)である。本日は長部日出雄氏を紹介したい。


長部日出雄略歴

1934(昭和)年青森県弘前市生まれ。読売新聞社勤務を経て、TV番組の構成、ルポルタージュ、映画評論の執筆等に携わる。1973年『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』で直木賞、1980年『鬼が来た 棟方志功伝』で芸術選奨、1987年『見知らぬ戦場』で新田次郎文学賞を受賞。おもな著書に『密使 支倉常長』、太宰治を描いた『辻音楽師の唄』『桜桃とキリスト』、『反時代的教養主義のすすめ』などがある。 直木賞や新田次郎文学賞など、多くの文学賞を受賞している彼だが経歴を見ると波乱万丈な人生を送ったようだ。


次に詳しい経歴を掲載したい。以下は青森県近代文学館のエクステンド常設展示「追悼 長部日出雄」からの引用である。


生誕~36まで 19341970 小学校に入る前から多くの本を読み、毎日のように映画を観、学校の成績も全 教科抜群の<早熟>少年であった。新聞記者になるという将来の職業をかなり前 から決めていた。小説は中学の時初めて書いた。学校新聞に小説、ルポの類を 発表、高校一年で早くも県下学校新聞コンクールで優勝、その才能が高く評価さ れた。 早稲田大学を卒業直前に中退し、読売新聞社へ入社。「週刊読売」の記者とし てトップ記事を連発、映画欄も担当していた。 しかし、退社後フリーのルポライターなどマスコミ世界で仕事を続けたが、酒に 溺れる日が続いた。自己喪失の危機を打開するため帰郷を決意したのは昭和45(1970)のことであった。


36歳~3919701972 当時「小説現代」の編集長だった大学の先輩大村彦次郎から小説を書くことを 勧められ、処女作「あゝ断餌鬼」を発表。作家を目指して、また自己再生を願って 帰郷、ヵ月滞在した。 津軽の各地を取材し、そこに津軽の精神風土の源流をみる。それは自己の再発見でもあった。津軽は<未知の国>であったという。10本の小説を「別冊小説 現代」などに発表、そのうち津軽に取材した本をまとめた第一創作集『津軽世去れ節』を地元の津軽書房から昭和47年上梓、翌昭和48年所収作品「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」で第69回直木賞を受賞した。作家への道を歩みだし、昭和47月再上京する。


40歳~4819731982 上京後本格的な作家活動を開始する昭和49年には津軽の近世を描いた『津軽風 雲録』、翌昭和50年には近年の発掘調査で注目された安東氏の栄枯盛衰を、現代と時 間交錯させた『消えた城塞』、翌昭和51年には五所川原の豪商佐々木嘉太郎、明治の 名工堀江佐吉の生涯と出会いを活写した『風雪平野』を刊行。 さらに、昭和52年からは「週刊文春」に年間にわたって連載した『鬼が来 た 棟方志功伝』を発表、昭和55年にこの作品で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。後に長部は「この作品で長編作家としての自信を得た」と語っている。津軽の風土を見詰 めながら、過去から現在に生きた津軽人の生きざまを見事に表現している。


49歳~5519831989 幼少の頃から観続けてきた映画は 6千本を超えるという。長部は作家のほか に映画評論家の<看板>も持っている。「週刊読売」の記者のとき、大島渚ら新人監督に「ヌーベルバーグ」と命名したのも長部であった。 「週刊朝日」の映画欄を年間担当したり、「オール讀物」には 昭和56年から休載を はさみながら映画評「紙ヒコーキ通信」を連載した。 昭和63日、映画監督として初めてメガホンをとった。原作・脚 本・監督を担当した映画「夢の祭り」である。津軽三味線に男のロマンをかけた物語。カナダのモントリオール国際映画祭「今日と明日の映画」部門でも好評を博した。


56歳~8419902018 昭和57年の『見知らぬ戦場』で第回新田次郎賞を受賞してその実力が証明され、 作家としての地歩を固め、話題作を次々と発表した。平成年には「まだ見ぬ故郷」 を毎日新聞に連載、翌平成年には「海燕」に「風の誕生」を連載した。また、平成14年 の『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』で第29回大佛次郎賞、第15回和辻哲 郎文化賞一般部門をダブル受賞した。 ほかにも、映画を題材にした『林檎キッドよ永遠に』や短編小説集『愉快な撮影 隊』エッセイ集『振り子通信』『精神の柔軟体操』などがある。 作家活動以外に、日本ペンクラブ理事や新田次郎賞、柴田錬三郎賞、山本周 五郎賞の選考委員、毎日映画コンクール、文芸家協会編纂の中間小説代表作 選の選考委員、大学や日本映画学校の講師などの仕事に活躍した。 2018(平成30)年1018日、自宅にて死去。 


1長部日出雄

少年時代は映画少年。大学を中退して週刊読売の記者になるものの、挫折して酒におぼれるなど若年の頃はけして順風満帆な人生を送ったわけではない。失意のうちに青森に帰省した彼はそこで新たな境地を拓いた。昭和48年所収作品「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」で第69回直木賞を受賞し、一躍脚光を浴びた。その後再び上京し、次々に作品を生み出し、数々の賞を受けている。そういう意味で大器晩成と言えるのかも知れない。

長部氏が亡くなって4年が過ぎようとしているが、私は在りし日の彼を偲んで宮城野区図書館から彼の著作である『風説平野』を借りた。今から読むのが楽しみである。

2風説平野

横町コメント
津軽は現役時代の自分が仕事で訪れた地域です。冬場の最低気温がマイナス17度くらいまで冷え込んだ際は度肝を抜かれた記憶がございます。そんな津軽の風土は人々をじょっぱり(意地っ張り)に育てます。

それはさておき、長部日出雄のプロフィールを見て、波乱万丈な人生と才能を感じました。彼の生き様に際し、雪国に育った人物の持ち味とも言える”不撓不屈の精神”を重ねた次第です。実は数年前に私が寄稿している「みちのく春秋」の前編集長である井上康氏が長部日出雄氏との対面を企画し、自分にも参加の打診が来ていたのです。

その時は既に長部氏は病魔(ガン)に冒されていて、残念ながら対面は実現しないままに終わりました。その時、井上氏は長部氏から「頑張ってください。健筆を期待しています」というメッセージを頂戴したとのことです。確か2015年頃の話だったと記憶しています。

津軽の冬場は地吹雪が多く、雪国特有の厳しい気候が人を気丈に育む気が致します。長部氏は同郷の太宰治(旧金木町、現青森県五所川原市出身)についても、いろいろと書いていますが、追悼の意味を踏まえその作品も是非読みたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。クリックして頂ければモチベーションが高揚します。宜しくお願いします。
 ▼▼▼


3六百横町
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)