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 菅江真澄遊覧記 高松日記 


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以前から私は、江戸時代中期から後期にかけて活動した漂泊の学者についての記事を書きたいという構想を持っていたが、つい最近その人物の伝記を図書館から借りたので紹介したい。その人物の名は菅江真澄である。非常に柔和な表情だが、彼は和歌を詠むことや、随筆の執筆、図絵を描くことに長けていたという。


1肖像

菅江真澄(1754~1829)

江戸時代後期の旅行者、博物学者、随筆家。本名は白井秀雄、幼名は英二、知之。白超とも。三河国渥美郡牟呂村(現・愛知県豊橋市牟呂公文町)にて生まれたといわれるが、岡崎市や新城市に生まれたとする可能性がありはっきりしていない。若い頃の真澄については資料に乏しく不明なことが多い。その理由として、真澄が自身の出自を明らかにしたくなかったものでは?と推察されている。


2出身地地図

真澄は国学や本草学の知識に富み、和歌や絵画にも優れていた。30歳の頃から旅に出て、信濃、越後、奥羽、蝦夷地(現・北海道)へと長い旅を続けた。真澄は旅の折に、その土地土地の風習、風土などを自画のスケッチとともに詳細に記録、その著述は200冊ほどあり「菅江真澄遊覧記」と総称され、当時の民衆の生活を知る貴重な資料となっている。アイヌ人の生活について記録し紹介したのも真澄が初めてとされる。

3真澄の行程

東北・蝦夷の遊覧から秋田に帰って十年ほど、五十代後半となった真澄は或る豪農(奈良家)の家に招かれ、長期間滞在している。

4秋田県有数の豪農・旧奈良家住宅

真澄は奥の間を書斎として提供され、奈良家からは優遇されたようだ。

5奥の間が書斎として提供された

真澄の書いた著物は失われたものもあるが、菅江真澄遊覧記のように現存するものもある。

6真澄遊覧記

半生権力者を関わろうとしなかった真澄だが、久保田藩第9代藩主佐竹義和は真澄のよき理解者であった。真澄が義和に拝謁した際はトレードマークの頭巾を外さなかったという。普通なら無礼となるのだが、真澄の場合は例外であったようだ。義和は真澄に久保田藩の地誌の編纂を依頼している。


7佐竹義和

横町コメント

菅江真澄の動画を見て思ったのは、真澄はこの時代エリートとされた人々(武士、神官、僧侶、医師、村役人、上層町人…)らと交流があったことです。それは真澄自身がこういう人たちの知的好奇心や教養を満たす人物であったからに他なりません。豪農の奈良家では書斎を与えられ、大事な客として扱われ厚遇されたようです。


真澄の没後200年近くが経ちますが、随筆や図絵を見ますと彼のエスプリが時空を経て現代に蘇ってくるかのような錯覚を受けます。かの柳田國男も真澄のことを”遊歴文人”として讃えているようです。それと私生活の多くを明かさなかった彼には、一体どんな柵があったのか?これについても気になるところです。


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8六百横町
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