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  長州藩士.世良修蔵. ドキュメンタリー幕末維新 伊丹十三 


前書き

戊辰戦争に関わったルーツを持つ東北人の年配者の多くは長州藩士・世良修蔵を憎み、恨んでいる。歴史と馴染みのないかたには関係のないことなのかも知れない。だが世良修蔵のことを知れば知るほど許し難いものを感じるのである。去る10月12日、私は福島市内で偶然にも長州藩士・世良修蔵の墓標(稲荷神社敷地の北東部の角地)を発見し、大変驚くとともに何かの因果を感じた次第である。


3墓標正面

リンク動画について

1974年製作のドキュメンタリーである。新旧を織り交ぜた様々な画像には独自性を感じる。鳥羽伏見の戦いの後、薩長同盟軍は前将軍である徳川慶喜とともに会津藩を朝敵と見なした。そんな中で慶応4年(1868年)1月17日に仙台藩主・伊達慶邦に対して会津藩追討の令がくだされた。会津藩主・松平容保は皇族の輪王寺宮能久親王に朝廷への嘆願を行い、22藩に対して和平への仲立ちを求めたが、時流の流れは変わるべくもなく失敗に終わった。


薩長にしてみれば東北に対して莫大な戦利品が欲しかったに違いない。従って東北諸藩の懇願など聞く耳を持たなかったのである。それでも東北諸藩では会津を救おうとする気運が高まり、庄内藩や米沢藩などが動き出した。仙台藩は米沢藩とともに会津藩への穏便な措置を求め、新政府軍奥羽鎮撫総督を務める九条道孝に嘆願書を提出した。しかし薩長同盟軍はそれを拒否して会津討ち入りを決定した。


その時に奥羽鎮撫総督参謀として仙台藩に入ったのが世良修蔵である。その頃「竹に雀を袋に入れて後でおいらのものにする」(竹に雀は伊達家の家紋の一つ)という歌が仙台藩に逗留した薩長軍の間で流行ったとされるが、まさに世良修蔵の本心を表すかのようなセリフだったに違いない。世良は藩内で略奪や婦女暴行を働くなど某若無人な振る舞いで仙台藩士らを侮辱した。


世良が暗殺される直接の原因となったのはこれだけではなく、彼が秋田に滞在する同じ参謀の大山格之助への密書に”奥羽皆敵”という言葉を使ったからとされる。この言葉が仙台藩士達を激昂させ、世良を暗殺しようという決意に至ったのである。


世良修蔵(1835~1868)略歴

防州大島郡椋野村久保田氏に生まれる。長州藩寄組浦家の家臣木谷家で、のち世良家に入った。名は砥徳で修蔵は通称である。尊王攘夷運動に参加し奇兵隊に入隊、1865年(慶応1)第2奇兵隊の軍監に任ぜられる。その後奥羽鎮撫総督府参謀として会津征討に赴き福島に滞陣中、奥羽諸藩の寛大な措置の請願を退けたという理由で仙台藩士らの反感を買い、宿舎(金沢屋という妓楼)を襲われ二階から飛び降りて瀕死の重傷を負い、賭博された後に寿川河原で斬首された。 


0伊達慶邦

横町コメント

実は去る8月に夏の高校野球甲子園大会で仙台育英高校が優勝した後に、拙記事(仙台育英高校の優勝を祝う記事)に或るかた(ルーツを仙台藩ゆかりの豪族に持つとされるかた)から、熱いコメントが入りました。それは長州藩士・世良修蔵の長年の遺恨を晴らしたという内容でした。スポーツの場と言うこともあり、あっさり流したかった私ですが、「溜飲が下がる思いです」と返し、思わず本音が出てしまった次第です。


動画の冒頭でも語られていましたが、世良修蔵は成り上がりの新政府の参謀と言う立場で、野卑で傲慢な気性を露骨に露わにしたとされます。農兵の出身ということもあり、武士のたしなみである儒教も、彼の中になかったのでないでしょうか?人材不足ということもあり、恐らく長州藩は口の利き方もわからない無学な人物を奥羽鎮撫総督参謀として仙台に送ったものと思います。それが仙台藩を激怒させ、奥羽越列藩の決起に繋がったものと捉えています。そういう意味で世良修蔵は歴史を変えた人物と言えるのかも知れません。


リポーターの伊丹十三氏が言っているように、外様大名とは言え、佐幕派の仙台藩にとって幕府抜きで新しい政府ができるなどとは到底考えられなかったことでしょう。そんな折に突然このような特使が仙台藩に突然現れて物議を醸した。もし世良以外のまともで、殊勝な物言いができる人物が仙台に派遣されれば別な結果に至ったのかも知れません。であるならば、これは悲劇と言えるのでないでしょうか?伊丹十三氏は最後に世良修蔵が単なる奸物(赴いた各地で酒色にふけった)なのか、それとも革命に身を捧げた志士なのか自分にはわからないとしています。


それと一部には世良修蔵を擁護しようとされるかたもおいでになり、このあたりは東北と長州の確執が未だに続いているものを感じます。会津と長州は一度は仲直りしようという動きがあったようですが、どうしても乗り越えられない部分があり平行線を辿り、未だに和解に至っていないと聞いております。これは裏の言葉ですが長州派閥というのが未だに幅を利かせているという話が戊辰戦争に関する歴史講演会の場で講師から語られていました。戊辰戦争が終わって150年以上過ぎましたが、同じ日本人の中に乗り越えられない溝がある。その溝とは何なのか?本日はそれに迫ってみた次第です。


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9六百横町
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