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前書き

ポルトガル人のフェルディナンド・マゼラン(1480頃~1521)が世界一周を達成してから今年で500年を迎える。本日はマゼランのの快挙を祝して苦難の足跡を振り返りたい。とは言うものの、マゼランは太平洋に浮かぶセブ島(現フィリピン領)で戦死してしまい、その後彼の18人の部下たちが喜望峰を通ってスペインに帰国していることを最初にお断りしておきたい。


1肖像画

実は数日前に所属している郷里の歴史研究会「石巻千石船の会」から会報誌(2箇月に1回発行)が届いて、それを知った。

2千石船の会会報誌

スペインのエンリケ航海王子(1394~1460)の遺志を継いだヴァスコダガマ(1469頃~1524)が1499年に苦心の末、アフリカ南端東回りによるインドへの新航路を開拓した後、ポルトガルの目は宝石に匹敵する高価な香辛料獲得に向けられていた。そんな中、ポルトガルの下級貴族だったフェルディナンド・マゼランは冷遇された母国ポルトガルに見切りをつけて1517年、その野望をかなえるためにスペイン国王カルロス1世と面会していた。

国王と面会したマゼランはこう述べた。「国王陛下、香辛料の産地、香料諸島へ行くには東回りよりも西回りのほうが、ずっと近いのです。この計画をかなえるために私を信じて是非スポンサーになってください」

しかし世界地図を見て一目でわかるように、ヨーロッパからインドネシアへ西回り(南米大陸南端を回って)で行くことは、けして近くなかった。彼は香料諸島(現インドネシア)の位置を間違って認識していたのである。世界一周に至ったルートをご覧頂きたい。

3航路

マゼランの自信たっぷりの弁舌で心を動かされたカルロス国王は彼を船長とする総勢約280名からなる5隻の船を派遣することを決めた。これを聞いたポルトガルからマゼランは嫌がらせや暗殺工作を受けたが、それを持ち前の大胆不敵なキャラではねのけて、念願の出港にこぎつける。とは言え、5隻の船はすべて老朽船で乗組員の大半はスペイン人でマゼランのワンマン体制に反抗的な者が不満を持ちながら同船していた。


1519年9月20日にスペインのサンルーカル港を出港した5隻の船団は、大西洋を渡って12月13日ブラジルのリオデジャネイロ港に無事到着、2週間の休息をとった後南米大陸東岸(現アルゼンチン)を南下した。ここで広大な入り江を発見したが後に南米第2の大河ラプラタ川河口と判明する。


冬の気配が濃くなってきた1520年3月31日、南緯50度に近いサンフリアン湾で越冬することを決めた。南緯50度を超すと「荒れる海」という表現は生易しい。「吠える海」「狂う海」といった表現があてはまるほどホーン岬周辺は強風が一年中吹き荒れていて多くの船乗りの命奪った恐怖の地帯だったのである


「こんな荒涼とした過酷なところで冬が越せるのか?マゼランは何を考えているのか?」…かねてからマゼランに不満を持った乗組員がここでいっきに反乱を起こす。一時は5隻のうち、3隻が反乱者の手に落ちたがマゼランは砲撃して反撃、2人の船長を殺すなどして制圧した。しかしマゼランは他の乗組員には寛大な措置をとって罪を問わなかったため、これ以後反乱の気配はなくなった。


8月24日に再び航海を開始した船団は複雑で険しい海峡の地形、強風に悩まされながら3カ月の苦闘の後ついに11月28日、広い海(太平洋)に出た。これが600キロにも及ぶ後の「マゼラン海峡」である。それは大航海時代の数多くの航海者が、阻まれ続けてきた細長い「南米大陸の壁」を打破した瞬間でもあった。マゼランは感激のあまり涙を流した。しかしこの快挙はその後の地獄のような苦しい航海の始まりでもあった。 


4マゼラン海峡地図

海峡を苦難の末通過した際に難破と逃亡でマゼランは2隻の船を失っていた。残り3隻となった船団はしばらくは平穏な海を航海できたため、マゼランはこの海をマール・パシフィコ(平和な海)と名づけた。(太平洋の名の由来となる)

その後、大海原で島を見つけることができずに、貧窮した食糧による飢餓と劣悪な衛生状態の航海はまれに見る悪夢と苦難に満ちた悲惨なものだった。99日間有人島を見つけることができずに太平洋のど真ん中で飢えに苦しめられて、食糧補給ができず虫のわいたビスケットやネズミを食べた乗組員はビタミンC不足から来る壊血病などで次々に死んでいった。後のグアム島に到達したのは太平洋に出てから99日目の1521年3月6日だっ た。


当時、人間の内臓を食べると重病も治るとの迷信があったため、死にかけた同僚に頼まれた乗組員はグアムの原住民を殺して食料を奪った。しかし原住民も反撃して奪還、怒って焼き打ちをかけたマゼランはこの島を「泥棒諸島」と名付けた。その後、フィリピンのサマール島、レイテ島を経てセブ島に着いた。ここでマゼランは原住民をキリスト教に改宗させようとしたが、隣の島のマクタン島の領主ラプ・ラプと対立、戦闘の上戦死してしまう。(推定享年41才) 


5香料諸島

司令官のいなくなった船団はセブ島を脱出、マゼランが死んでから半月後についに目的地の「香料諸島」(現インドネシア)に到達した。以後2隻の船が損傷したため、残りは最後の1隻ビクトリア号(下の写真はレプリカ)となった。


ビクトリア号と残された乗組員は以後も苦難の航海を続け、喜望峰を回り出港から約3年後の1522年9月6日、スペインのサンルーカル港に奇跡の帰還を果たした。このときの乗組員は出港時のわずか1/15の18人になっていた。反乱、難破、飢餓、殺戮、司令官マゼランの戦死…地獄のような惨状だったが、この航海はまぎれもなく人類が初の世界一周を果たした大航海だった。


6帆船

横町コメント
日本がまだ戦国時代だった頃、ポルトガル人によって世界一周の快挙が成し遂げられたのは驚くべきものがあります。マゼランの死は18人の乗組員の帰還によって報われたと言っていいのではないでしょうか?知人の一人に「歴史にはあまり興味がないが、大航海時代だけは別で大変興味があります」と述べていたかたがいました。私も大航海時代の世界史には並々ならぬ興味がございます。学生であれば研究のテーマにもしたいくらいです。

その理由は新航路の開発で世界の勢力図が大きく塗り替えられ、人類史全体に大きな影響を与えたのが明確であるからです。それまではシルクロードを始めとした陸路が中心で、イスラム商人が幅を利かしていたわかですが、大型船と火力をいち早くものにしたスペイン、ポルトガルがイニシアチブを取った時代でした。

その後イギリスが急激に力をつけて行きましたが、無敵艦隊と言われたスペインが敗れるまで、この二強の時代が続きました。これについては、ヨーロッパに西端に位置する両国が地の利を活かしたとも言えるのではないでしょうか?

察するに、マゼランの航海は常に恐怖との戦い(荒れる海ばかりでなく、乗組員の反乱や飢餓、病気との戦い)だったのでないでしょうか?セブ島で非業の死を遂げたマゼランですが、人類史上初めて世界一周を成し遂げた人物として十分崇めるものを感じます。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。
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7六百横町
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