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1987年の大河ドラマ「独眼流政宗」は今でもYOU TUBEで見ることが出来る。数年前、かつて伊達と相馬が伊具の丸森(現宮城県南部)で争った際、伊達輝宗(伊達政宗の父)が陣を張った平城跡を訪ねたことがあった。屋敷林で囲まれた城跡には民家が建っているが、その住人である元小学校の校長が「独眼流政宗は傑作であり、放送後30年を経た今でも、宮城県人にとっては、大きな存在感を放っている」と語られていた。これは私も全くの同感である。第6話の後半には相馬との戦いに初出陣する若き日の政宗も登場する。

伊達藤次郎政宗は数え年13歳で三春の田村家から愛姫(数え年11歳)を迎えた。その愛姫に付き添ってきたのが前半に登場する侍女三人である。この侍女が実は曲者で政宗との仲を裂こうとした。本日は大前提として、それを史実と認めた上で話を進めて行きたい。それにしても「侍女成敗」とはかなり物騒な題名である。


初代片倉小十郎影綱(15571615)
先祖は信濃国伊那郡片倉村に住し大崎氏に従い奥州に下ったと伝えられる。置賜郡永井庄現山形県長井市)の八幡宮神社の神主の子に生まれ、伊達政宗の守り役を使わる。数度に渡る抜擢を経て仙台藩伊達氏の重臣となる。小十郎は3代に渡る世襲名であるが、この初代景綱が特に著名である。豊臣秀吉の奥州仕置に際し伊達政宗の小田原参陣を推進近世大名としての伊達氏の再生を決定づけ。太閤秀吉の福島三春の独立大名(10万石)の誘いを伊達氏への忠義を理由に固辞、一国一城の例外的措置である白石(しろいし)城にあって13千石を領した。片倉家は伊達氏では「一家」の家格で以降しばしば奉行職などの重職に任じた。

片倉喜多(少納言喜多とも)(1538~1610)
日本三大賢婦人の一人。伊達家臣・鬼庭良直の娘(長女)として生まれる。母は本沢真直の娘・本沢直子。 聡明な女性に育ち、文武両道でもあり兵書を好んだとされる。 鬼庭良直の剛健さや、母・直子の壮麗さを継いでおり、才気煥発であった。母・ 直子は男児に恵まれず、1549年、鬼庭良直の側室である牧野刑部の娘が男児(鬼庭綱元)を出産すると、この側室が正室になり、母・直子は離縁となった。その後、父・直子は 喜多を連れて、八幡神社(置賜郡永井庄)の神職・片倉景重と再婚。片倉景重は喜多に一通りの教養は勿論のこと、剣、薙刀、弓、軍学をも学ばせ、男にも引けを取らないほどの達人に育てた。1557年、異父弟となる片倉景綱を母が産んだ。そして、この弟・片倉景綱は、片倉喜多からの教育も受けて育ったという。その後、片倉喜多の素質を見抜いた伊達輝宗は、1567年に誕生した嫡男・政宗(梵天丸)の乳母に任命する。喜多は終身に渡って独身を通した。



田村家から遣わされた三人の侍女、中央が村岡(田村家家臣:平田右近の娘、俳優・浅利香津代)である。この三人がたくらんだのは愛姫を田村家に連れ帰ることであった。片倉小十郎影綱と姉・喜多の機転で村岡のたくらみは暴かれ、この三人の侍女は喜多に成敗されることとなった。



片倉小十郎の眠る白石市愛宕山を訪ねたのは12月9日(土)のことであった。ずらりとならんだ菩薩像?!このような墓を見たのは生まれて初めてであった。



片倉小十郎影綱の菩提寺はここから少し離れた傑山寺にある。影綱は杉木を標としたところに葬られているが、この愛宕山にも分骨されて眠っているようだ。



墓所の脇には、片倉小十郎影綱の後を追って殉死した家臣六人も葬られている。



著者挨拶
片倉小十郎影綱と姉・喜多、この二人の機転が政宗と愛姫の危機を救うことになります。時間のないかたは32分~34分だけでもご覧頂きたいと存じます。片倉家はこうしたいきさつを経て主君・伊達政宗から絶大な信用を獲得して行きました。姉が姉ならば弟も弟。私は独眼流政宗シリーズ中でこれほど、姉弟の存在感を感じたものはございません。極論に及べば私はこの二人の裁量がお家騒動に発展する危機を救ったものと察しております。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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