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「街道をゆく 甲州街道」
昨日の12月13日(水)、私は例によって図書館で司馬遼太郎の「街道をゆく」をビデオで鑑賞した。鑑賞したのは新シリーズの「甲州街道」編である。本日はその概要について箇条書きで述べたい。



但し概要を述べるだけでは余りにも能がないので、処々に自分の所見を加えながら、この記事へのオリジナリティを高めて行きたい。



甲州街道のルートを航空写真で確認して頂きたい。



1、太田道灌が歌った武蔵野の広大さ
司馬遼太郎が武蔵国(むさしのくに)を訪れたのは昭和45年5月のことだった。武蔵国とは今の東京都と神奈川県、それと埼玉県の一部である。司馬は太田道灌の歌(「露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原」)を借りて500年前の武蔵野の広大さを表している。


太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486)


室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い

武蔵野の広さと豊かさはそれから約400年後の明治時代後期に国木田独歩が小説「武蔵野」に著している。かつては広大な葦原が広がっていた関東平野が江戸から東京となり、大都会に発展するわけだが、その成り立ちを考える時、甲州街道が果たした役割は大きい。
但し、往時の武蔵国は稲作には適さず荒蕪の地であった。同じ武蔵の地でも、山を西に背負って細流の流れ込む八王子付近のほうが上代の農耕に適しているらしく、甲州街道沿いが武蔵の農耕地域の中心であったと司馬は語っている。



2、百済からの避難民が坂東武者の祖となる
更級日記の中に1000年前の武蔵国の或る人物を描写したものがある。菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が歌った「武蔵の国に来た。紫草が生い茂っていると聞いているその野も、いったいどこに紫草が群れているのかよくわからない。それほどに葦や萩が高々と繁っていて、弓を持ち馬に乗った人に出会っても、振り返ればもう草の向こうに消えているという具合である」である。

「弓を持って馬に乗った人」とは一体誰なのだろう。司馬はその人物像を、7世紀の朝鮮半島で行われた白村江の戦いで敗れた百済から逃れてきた約二千の民の末裔と推察している。往時は大和(奈良)から西は馬の扱いに不熟練であったことを挙げ、こうした武勇に長じた者のアジア東端への移民を興味深く捉えている。史実を単なる点として捉えず、常に大局的な観点で俯瞰する。これは司馬遼太郎の常套手段だが、東アジアへの民族の移動が日本の武士の起こりに深く関わっているとはっきり述べている点に、改めて氏の視点の広さがただならぬものであるのを如実に感じるのである。


3、北条氏の支配から秀吉、家康の時代へ
司馬は北条氏の最大の軍事拠点であった八王子城跡を訪ねている。八王子城は1571年は北条氏康の三男、氏照によって築城された標高445メートルの山城である。氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移したとされるその後、秀吉の強大な権力に真っ向から抗った北条だが、この城は小田原城とともに落城し、憂き目に遭うことになる。

北条氏照(1540~1590)北条氏康の三男。母は今川家出身の瑞渓院で、北条氏政らとは同母兄弟。武蔵国の有力国人・大石定久の婿養子となって家督を継ぐ。はじめ滝山城、のち八王子城を拠点としている。北条家の軍事における中心人物として活躍、勢力拡大に貢献した。通称は陸奥守。小田原の役で豊臣秀吉の前に降伏すると、兄・氏政と共に切腹した。

関八州を支配した北条氏の最大石高は285万石、士卒は約7万人。その身代の大きさと重みが最後まで秀吉の旗下に属するのを拒んだ所以だったのかも知れない。


北条が滅んだ後の八王子には秀吉の臣下に属した徳川家康が支配するものとなった。家康は北条の残党を放逐することなく、むしろ抱えたという。時に、落ち武者さえも我に利ありと踏まえれば、味方に加えるその柔軟さこそが、その後に及んで彼が天下人となった所以なのかも知れない。司馬は国境警備に当たった勇猛な武士団の住んだ千人同心屋敷を訪ね、「八王子には、東京の出現によって滅ぼされた江戸の人間文化が今も生きている」と述べている。


4、徳川慶喜と新選組
近藤勇を始めとした新選組の幹部は甲州街道出身者が多い。局長の近藤勇が武蔵国多摩郡上石原村の出身、副長の土方歳三が同国多摩郡上石原村の出身、沖田総司は生まれこそ西麻布だが、生家は甲州街道沿いの日野だった。鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組は勝海舟の指示で甲陽鎮撫隊と名を変え甲府を抑えに向かうが、一足早く甲府城は新政府軍に占拠されており、土方が援軍要請のために江戸に戻る最中に甲陽鎮撫隊は敗走した。その後近藤、土方らは流山に結集し再起を図るが、新政府軍に包囲される。近藤は偽名で投降し事態の打開を図るも怪しまれ投獄される。

土方は勝海舟らに近藤釈放を嘆願するが聞き届けられず、武蔵国に隣接する下総国の流山で処刑された。ここに冷徹なまでの勝海舟を見るわけだが、勝海舟は近藤勇を甲州に向かわせる口実として、押し寄せる官軍を前に甲府を制圧すれば、甲州百万石が手に入ることをちらつかせたと言う。徳川慶喜は実質的な官軍との交渉権を勝海舟に委ねた。そして己の身の保全を図り「賊」になることを恐れた。そんな慶喜を司馬は「濃厚な歴史主義者」としている。番組では、自ら徳川慶喜の恋人と称する八王子の老舗履物商の女主人・河合重子さんが出演し、司馬遼太郎との小仏峠の同行の話を懐かしく語っている。
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感想
坂東武士は我が国の武士の魁となったわけですが、その坂東武士のルーツが朝鮮民族(百済)の渡来だという司馬の説には驚くものがございます。日本人と中国人と朝鮮人のDNAは大変良く似ているとの研究報告がございますが、そのルーツの多くが朝鮮半島から渡来したのは間違いないようです。司馬は「街道をゆく 芸備の道」で、4~5世紀に製鉄の技術を持ったタタラ衆が朝鮮半島から船で渡ってきて出雲から安芸へと拡散して行ったとしていますが、7世紀にもこうした大規模な移動があったことになり、我が国と朝鮮は古代から極めて密接な関係にあったと捉えることが出来ると思います。同時に、今回も古代から近世に渡る司馬の幅広い英知と鋭い眼力に触れた気が致します。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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