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本日の午後、私は青葉区小松島に向かった。目的は高山樗牛縁の瞑想の松を訪ねることである。以前のブログを見ると、訪問が2019年の8月だったので、3年半ぶりの訪問となる。バイクをツルハドラッグの駐輪場に置かせて頂き、市道を北東に向かった。すぐ脇には仙台市営バスのバス停(瞑想の松)がある。道路の正面の緑の屋根の建物の上に見える松が瞑想の松である。

1正面の松

途中の民家の庭先からも瞑想の松を見ることが可能である。傾いて、斜めに根付いているのがおわかり頂けるものと思う。

2民家の間

これが瞑想の松である。背後の建物は東北医科薬科大学である。

3全景

Google3D立体画像で瞑想の松の位置を確認して頂きたい。

4Google3D立体画像

樹齢は620年となっているが、これは昭和50年時点のことなので、今は約670年である。高山樗牛がこの松の辺りで瞑想にふけったのは明治25年(1892年)のことだった。従って今から130年前のことになる。歌碑には「いくたびかこ々に真昼の夢見たる 高山樗牛冥想の松」と刻まれている。歌碑の建て主は往時の地主の萱場製作所社長の萱場四郎、作者は土井晩翠である。

5樹齢、石碑

高山樗牛(1871~1902)
羽前国の鶴岡(現山形県鶴岡市)の庄内藩士の家に生まれる。一歳のとき伯父・高山久平の養子になる。福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の旧制第二高等学校に入学する。第二高等学校時代、詩人の土井晩翠は樗牛の一期後輩に当たる。明治26年(1893年)東京帝国大学哲学科入学。明治27年(1894年)読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選新聞連載される。(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。

明治29年(1896年)に大学を卒業。母校仙台第二高等学校の教授になるが、往時既に文壇の寵児となった彼にとって仙台は物足りなかったらしく翌年には辞職して上京する。その後博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。「帝国文学」や「太陽」などに文芸評論を書く。「日本主義」を鼓吹する評論を書く一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐって森鴎外とは論争を行った。

明治33年(1900年)には文部省から、美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。翌々年の明治35年(1902年)結核のため逝去。享年32歳。

6樗牛

展望台からはこのような絶景が開ける。高山樗牛が訪れたころの仙台は人口6万人ほどの小都市であったので、眼下には今では考えられないほどの長閑なロケーションが広がっていたのかも知れない。

7市街地遠望

横町コメント
略歴をご覧頂ければ樗牛が俊英であったことがおわかり頂けるものと察しております。多くの文豪は恋患いを経験しましたが、樗牛もその一人でした。昭和40年仙台市教育委員会発行『仙台の文学散歩』によると、樗牛が最初の下宿で三味線の音がうるさくて下宿を変えたところ、そこの美しい娘さん(M子)に一目惚れしたということです。然るにM子には既に許婚が居て、樗牛は叶わぬ恋に身を焦がしたようです。瞑想の松というからには、何か俗離れしたことでも瞑想したのでは?と思いたくなりますが、実は恋患い(失恋)だったのです。昔から恋患いにつける薬はないと言いますが、樗牛も人の子であり、若き血潮がほとばしる一人の男子でした。

彼は森鴎外と論争を行うほど、美学に対する思い入れが強かったようです。彼は奇しくも夏目漱石と同学年です。夏目漱石は49歳まで生きましたが、彼は32歳の若さで逝去しました。もし高山樗牛が夏目漱石と同じくらいの年齢まで、或いはそれ以上の年齢まで生きたらどうだったのか?それこそ我が国屈指の思想家に昇りつめていたのかも知れません。それだけに、洋行決定後の急逝が大変惜しまれます。

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8六百横町
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コメント

森鴎外、夏目漱石漱石とほぼ同世代だったのですね…。死因は結核だったのですかね…。惜しまれる若死でした…。下宿先の娘さんに恋をしたというエピソードには、庶民性が感じられて心温まりますね…。その恋心を慰めた場所が、瞑想の松とはなかなかの縁の地です…。当時の地形図を見ますと北からの大地の南端にあたり、見晴らしのよい場所であったことが分かります…。そこに当時からの一本松が生えているのですね…。なかなか由緒のある場所ですね…。

URL | boubou ID:-

こんばんは

仰るように高山樗牛がもう少し長生きできれば、
新たな展開が期待できたでしょうね。
でも、現状のままでも十分に著名な方です。

URL | ichan ID:-

こんばんわ~。

瞑想の松は、まさに私の地元という感じです。
以前、この辺りに住んでいたので、とくに思い入れがあります。
ほんと、数え切れないほど、あの高台に登りました。
なので、いくたびか…の歌は、小さい頃から、
意味も分からないながらも知っていましたよ~。
昨年、市の文学館で行われた「瞑想の松物語」という企画展で、
高山樗牛と土井晩翠について、詳しく紹介されていました。
仰られるように、今でこそ、荒城の月の土井晩翠が、
あまりにも有名ですが、もし、高山樗牛が短命でなかったとしたら…
大きく歴史が変わっていたかも知れませんね。。

boubouさん、ありがとうございます。

この松がこの地に根付いた時期を割り出せば南北朝時代に遡ります。往時は閑散とした場所で、或いは戦の際に砦が築かれたのかも知れません。千数百年の間に、どんな人物がこの松に関わったのか?昨日はそんな取り留めのないことを考えつつ、しばし佇んだ次第です。

瞑想の松から想像するのは、樗牛が俊英ということもあり、哲学的な難しいことでも考えたのだろうということですが、さにあらず。樗牛も人の子だったことがわかります。このあたりには親しみさえ抱きます。面長で口髭が似合いますが、よく口髭をたくわえた人物に有り勝ちな攻撃的な印象を感じません。逆にエスプリを感じます。このあたりは夏目漱石と同じですが、森鴎外は目つきがきついせいもあって怖い。織田信長もその類ですが、攻撃性がインテリジェンスを上回っている…従って近寄りがたい。自分はそんな印象を持っています。

地形に関する考察はさすがです。恐らくは昔人が待ち合わせに供した松であり、男女の逢引の場所にも使われたことでしょう。おはからいにより、本日も有意義な話題を提起して頂きました。ご配慮に感謝申し上げます。コメントを頂きありがとうございます。

ichanさん、ありがとうございます。

おはようございます。「知の回廊」という言葉がありますが、こうして自らのブログに高山樗牛を掲げることで、樗牛の遺したものを知りたいと思う気持ちが強くなって参りました。次回に図書館に足を運んだ際は是非、彼にちなんだ本(伝記でも可)を借りたいと考えております。

樗牛は熱血漢という一面もあったようですが、森鴎外とどんな論争をしたのか?調べてみたくなりました。僅か31年の生涯で刻んだ足跡には畏敬さえ抱いています。剃刀のような鋭い切れ味を持った思想家という印象が強いです。

ご配慮により、本日もお志を頂戴しました。おはからいに感謝しております。コメントを頂きありがとうございます。

penpen_1goさん、ありがとうございます。

おはようございます。高山樗牛に関する詳しい考察を頂戴しました。樗牛は若輩の身でありながら天下国家を論じるような、良く言えばスケールの大きく、悪く言えば大風呂敷を広げる話を好んでする性格だったと言いますが、これを自ら百も承知であったと聞いています。こういう人物は論敵も多かったわけですが、健康面に関しては案ずるものがあったようです。

特筆するべきは彼が庄内鶴岡の出身ということです。樗牛とは年代は異なりますが、仙台に骨をうずめた阿部次郎も庄内(現酒田市・旧松山町)出身でした。更に時代を遡れば幕末に活躍した清河八郎もおります。このような偉大な思想家を複数輩出した庄内という土地柄。これには何らかの因果さえ感じます。庄内平野と言う壮大極まるシチュエーションが、このような大人物を生んだ気がしてなりません。

貴兄のお話を拝し、文学館に足を運んでみたくなりました。動機を頂戴し感謝申し上げます。土井晩翠らとの関りも興味の尽きないものを重ねます。
おはからいにより、本日も有意義な話題を提起して頂きました。ご配慮に感謝申し上げます。コメントを頂きありがとうございます。

こんにちは、瞑想の松、ずいぶん、古く傾いているのが心配な感じがします。
それを大切に保存している仙台の方々のお気持ちを感じさせる今日のブログでした。

高山樗牛のことは、すみません、お名前は聞いたことがある程度でしたが、若くて亡くなったのですね。
それも一因なのでしょうか。
神の愛でし人という言葉が自然と出て来ました。

URL | スミレ ID:EBUSheBA[ 編集 ]

スミレさん、ありがとうございます。

おはようございます。ご質問の含みについて掘り下げてみました。思想家や創作家について或る知人が見解述べておりました。それによりますと「生涯のうちの活動期間の長短が、仕事のボリュームや質に対して影響する」とのことでした。
記事で取り上げた文筆家の没した年齢を満年齢で申し上げますと
森鴎外66歳
土井晩翠80歳
夏目漱石49歳
高山樗牛31歳
となります。ボリュームにおいては、概ね知人の述べているのは的を得ている気がします。但し質を語るならば、多様な評価が介在するので微妙なものがあります。必ずしもボリュームが増せば質が上がるわけではない。これは言えることなのかも知れません。ご質問の肝となる”知名度”に関与するのは言うまでもなく、質>量となると認識しております。

言えるのは高山樗牛の成した仕事を評価するに際し、自分の今の知識では不十分ということです。従ってこのギャップを埋めるべく、彼の遺した作品を調べたいと考えています。
ご配慮により、本日も有意義な話題を提起して頂きました。おはからいに感謝しております。コメントを頂きありがとうございます。

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