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 Kaiser-Walzer - Johann Strauss 
リンク曲について
人間の生涯は短い。これは年を重ねてようやく実感としてわかることである。これは子育ての経験のない者に、親の気持ちがわからないのとまったく一緒である。私の二十代の頃も正にそうだった。怖いもの知らずだったがゆえに、その後に支払った代償は大きかったのである。

数え切れない挫折を味わい、人間にとっての幸福がけして相対的視点から得られないと悟ったとたん、ようやく私の足が地に着いたのである。流行をけして追わない私にとって、こうしたヨハン・シュトラウスのワルツが心の奥底に響きを奏でる。これに酒があれば後は何も要らないのである。さあ、今宵も酒を飲み、短いながらも己の人生の存在価値を噛み締めたい。この身体が続く限り…
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本日は会議があり半日だけの出勤だった。私は午後の余暇時間を有意義に過ごそうと考え、愛車を駆って仙台市東部の宮城野区に向った。書店やホームセンターを見て廻る。以前の私なら衝動買いしたかも知れないが、今は確固たる信念がある。それは生活はシンプルがベストということである。そういえば1970年代半ばのピーター・フォンダが登場したレナウン(アパレル企業)のコマーシャルで彼は「SIMPLE LIFE IS MY WAY」と語っていた。

私は定年後に断捨離を履行することで、初めてモノの価値がわかった気がするのである。従って本当に欲しいと思ったモノ以外は絶対に買わない。そんな気持ちで売り場を見て回った。断っておくが、これは吝嗇とは違う。欲しいモノを絶対視することで、己の気持ちがプラス側に動くなら躊躇なく購入する。今はこうした価値観を持つことで公私ともに充実を感じるのである。

私は目的地に赴く前に幼少時から慣れ親しんだ梅田川の河畔に立った。この川は自分が窮地に陥った際も、一時も変わらず流れていたのである。川は時に水嵩を増すこともあるが、常に海に向って注ぐ。是を言い換えれば「一滴の水はどんな過程を経ても最期は海に注ぐ」とも言える。私はここに人間を初めとした生物の儚さ(例え長短はあっても、どんな生き物も死は公平に訪れる)を感じるのである。川は流れることで自浄作用を保つが、現世における森羅万丈の摂理は川の存在に酷似している気がするのである。

私が向った目的地は馴染みの歯科である。右下の奥歯の詰め物が取れたことへのメンテナンスだった。私の掛かりつけの大先生は、七十を前にして既にご子息に院長を譲っておられた。但し、とても年を感じさせないほど矍鑠として居られる。

治療に掛かった時間は十分ちょっと。「先生、有難うございました」治療が終わり私は大先生に深々頭を下げた。以前はギクシャクした態度でやっていた挨拶が、最近になってようやく自然に出るようになった。

治療が終わって外に出た。日が陰り、少し寒くなってきたようだ。私はリュックからウールのチョッキを取り出して、コートの下に羽織った。恐らく、しばらくはこの歯科にお別れとなることだろう。その時、私は大先生のご健勝を願わずに居られなかったのである。

ミック挨拶
大変言い難いことですが、この年になりますと己が成長したことなど、なかなか口に出せないものです。有体に申し上げましょう。「この年になってようやく」というところが恥ずかしいのです。私は大先生を尊敬していますが、これは大先生を信頼しているからに他なりません。当たり前のことかも知れませんが、私は信頼も尊敬も単独では成り立たず、どちらも欠くことが出来ない二者一体のものなのだと認識しております。

話は変わりますが、知っての通り我が国は儒教国、私はサラリーマンとして生き残りを果たす為に、定年前の数年間、論語を主として儒教を学びましたが、その恩恵は死ぬまで続くものと察しております。己の心の奥底に居づいた儒教が自分の老後の死生観をも変えうる。私は改めまして、ここに儒教教育の大切さを再認識するのであります。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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