fc2ブログ
司馬遼太郎『街道をゆく 神戸散歩』
本日の午前中、私は若林図書館を訪ねた。



目的は現在借りている本の更新と視聴覚コーナーで司馬遼太郎の「街道をゆく」のビデオを見ることである。今回もいつもと同様に、ビデオと著物の双方を見て、内容をまとめ、自分なりの考察を加えてみた。



1、神戸人が大阪人に対して抱く優越感とは?
大阪湾は単に国内貿易のみでなく、古くからグローバル的な意味合いを帯びた港だった。古くは遣唐使船、遣新羅船、平家の政権時においては対宋貿易船の根拠地、室町時代には対明貿易船が活躍した。中世末期になると南蛮船も渡来した。更に近世の千石船の時代となると、北前船、菱垣船、樽廻船などが活躍し、日本列島を一つの経済圏とするのに、この港は大きな役割りを果たしてきた。そんな大阪湾には二つの都市がある。大阪と神戸である。この二つの都市は性格も市民文化が全く異なるという。大阪の人には大変申し訳ないが、神戸の人の多くは「自分は神戸に生まれて良かった」と言い、優越感を感じているというのである。司馬遼太郎がそんな神戸を訪れたのは昭和57年7月のことだった。司馬によると神戸の町は日本の大都市の中で例外的に江戸期の城下町の伝統がないとしている。これは外国人居留地文化の名残だという。



2、外国人居留地
神戸港は1868年1月1日の開港である。開港から31年間に渡って外国人居留地が設けられ、多くの外国人がここに移り住んだ。それまでの日本にはなかった街路樹や公園といった文化は欧米から伝わったものである。その頃の神戸は英字新聞に「東洋における最も美しく設計された町」と紹介されたほど、神戸の町は美しくもあり整然としていた。その後第二次世界大戦の戦火で焼かれ、戦後は新たな貿易港として生まれ変わった。神戸の町は他の都市に比べて俗っぽさがなく洗練されている点について、司馬は「戦前の整然とした町並みという祖型と、異人館の醸し出す美観についての憧憬心が、無意識のうちに市民気質の中に根付いた」と述べている。

3、布引の滝の水
六甲山系から湧き出る神戸の水は以前からとびきりのものとされていた。現在の大阪の水道は淀川から引いてきているが、昔の神戸の水道水は布引(ぬのひき)の滝の水で、神戸港に投碇して水を調達する船乗りの話だと「コウベ・ウォーター」は世界一であるという。布引の水は六甲の老化した花崗岩層を潜って適度にミネラルを含んでいるからとも言われるし、船に積んで遠洋に出ても劣化の度合いが少ないとも言われる。そんな神戸の水だが、外国人居留地が造られた頃の生田川は大雨の度に氾濫を繰り返し、外国人たちを悩ませたという。

加納宗七(1827~1887)は紀伊和歌山の御用商人、実業家である。陸奥宗光らの尊攘運動に加わり、旧幕府からは政治犯とされたが、1867年(慶応3神戸に移住、外国事務役所の材木用達和歌山藩開物局神戸下店の頭取となり運輸業にも進出した。彼は明治維新を経て、1872年(明治5生田川の旧河川敷13.8ヘクタール買取り、改修工事を行い直線的な最短ルートで新生田川を開削し、同時に埋め立てを行い加納町を造成した1875年(明治8)には小野浜に港湾を築造した。司馬はそんな加納宗七の功績を讃え、彼が現在の神戸市街の骨格を作ったとしている。

4、再度山(ふたたびさん)
六甲山地の再度山山頂付近にある再度公園の一角にある再度山外国人墓地は甲子園球場の約10倍の約14ヘクタールの広大な敷地を有し、神戸をはじめ日本人の生活、文化に影響を与えた外国人が眠っている。司馬が訪れた頃、再度山には2600近い墓石が立っていた。この墓所は一般公開されていないが、司馬は取材の為特別に神戸市に許可を取り、この墓所を訪れている。無名の一兵卒、美貌を誇りながら43歳の若さでなくなったミセス・グリーン(ヒョーゴホテルの創設者)らが眠っているが、彼女の墓には艶やかさと儚さの両面が漂い、司馬の心を捉えている。

5、青丘文庫
青丘文庫は、在日朝鮮人の経済人であり学者であった故・韓皙曦(はんそっき)氏が、私財を投じて1969年(昭和44)に設立された朝鮮史の専門図書館である。韓皙曦氏は三万点という膨大な資料を集めている。彼は実業家(ビニールを使用したケミカルシューズ)としても成功し財を成した人物であるが、東京から神戸に移り住んだ理由にゆいて、朝鮮人ということに頓着しない神戸の地域性(外国人に広く門戸を開放する土地柄)を挙げている。彼が要職を務めた工業組合のスローガンは①東なく、西なく(関東、関西の区別なく)②煙突の大小を問わず(工場の大小によって力関係を定めないという公平性)③民族の如何を越えて(読んで字の如く、宗教や思想、民族に拘らないグローバル的志向の重要性)④一本の旗の下に(ケミカルシューズという分野への専心)というものを掲げている。韓皙曦氏の勤勉さと、広い視点を感ずるスローガンである。

6、神戸大震災に見舞われた市民へのエール
司馬が訪れた13年後に神戸は大震災に見舞われ五千人近い尊い人命が奪われた。番組の最後に、心を痛めた司馬が愛する神戸の復興を願って、次のようなエールを送っている。「世界にただ一つの神戸」大変短い言葉であるが、灰燼と帰した状況の中で力強く立ち直ろうとする神戸市民の自立心に対して、感動と尊敬を込めた言葉である。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
挨拶
本日は原作のほう(司馬遼太郎 全集57)も借りましたが、NHKで過去に放送された「街道をゆく 神戸散歩」は、司馬遼太郎の著作の一部でしかありません。彼の「神戸散歩」は、とても30分程の放送で網羅できるボリュームでないのです。取材に同行した人物の中には、挿絵担当の須田画伯も居ります。「神戸散歩」は他の作品同様に、取材を経て書き上げた大作という気が致します。



彼は取材の前に書庫から蔵書を引っ張り出し、関係する著物を重ね、時には百冊近くが机上に載ったとされます。それを片っ端から目を通す。いくら仕事とは言え、彼の下調べの入念さ、即ち、勤勉さには驚きます。歴史ものに関しては、やはり入念な下調べあっての執筆であり、それを骨子として作者が考察を加えるのが王道という気が致します。

私はとても彼のようにはなれませんが、少しでも近づけるよう日々研鑽を積んで参りたい所存です。語彙を増やすこともそうですが、歴史に対して広い視点を持ちたいとも考えています。又扱う年代もこれに同じで、古代から近代に渡り幅広い知識を得、新旧に捉われず多くの史実に対してコメントできるような裁量を培いたいと思っています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)