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昨日、私は青葉区国見ケ丘を訪ねた。”陽だまりの通り”と称される道(国見ケ丘二丁目と三丁目の間の通り)は文字通り日当たりがよく、住みやすい住宅地という印象を受けた。この後、四丁目のほうに向かった。

1エリア地図

ここは芋旧川内芋沢線で国見峠の最高標高地点の近くである。夜になると車で若いカップルが仙台の夜景を見に来るスポットとして有名だが、付近の迷惑ということもあり、「駐車は渋滞の原因になりますのでご遠慮ください」という札が掲げられている。

2絶景

黄檗宗臨済院跡はこの道沿いに位置する。長い石段を下りることにした。

3石段

これは弁財天堂である。
弁財天堂(以下Wikipediaより引用)
方三間、宝形造、銅板葺の仏堂。建立年代は様式から江戸時代中期とみられ、解体修理時に「宝永」の年号を墨書した板(棟札か)が発見されたことから、宝永年間(1704~1711年)の竣工とみられる。臨済院直属ではなく、塔頭の慈峯院が別当として管理した。臨済院が廃寺となり、建物がすべて失われても、このお堂だけは地元の住民が守って維持された。

昭和62年(1987年)9月に宮城町が町の有形文化財に指定し、これを受けて修理のための河北山臨済院弁財天堂修復奉賛会が作られた。宮城町は同年中に仙台市に合併したため、仙台市の文化財となり、市の補助を受けて修復奉賛会が平成元年(1989年)に堂を修理した。

4弁財天堂を見下ろす

本堂跡にはこのような配置図が掲げられている。

5配置図

臨済院の歴史(以下Wikipediaより引用)
黄檗宗(おうばくしゅう)に傾倒した仙台藩主伊達綱村が、元禄14年(1701年)に仙台の北西の外れにある角五郎丁に作らせたのが始まりである。綱村が筆をとって額の字を書き、仙台城内の万善堂にあった如意輪観音像を本尊とした。開山は、仙台近郊にある大年寺の第4世鳳山であった。鳳山は、大年寺の役僧を1か月交代で臨済院に派遣して管理した。寺には料具金13両と、人足扶持8人分が与えられた。

綱村の後を譲られた伊達吉村は、正徳4年(1714年)2月9日に、栗原郡一迫畑岡村で4貫700文、志田郡下中野目村で5貫300文、合計10貫文(100石)の寺地を与え、かわりに料具金・人足扶持を停止した。正徳5年(1715年)9月に、吉村は臨済院を芋沢村の吉成に移した。その頃は綱村も隠居として存命で、家臣をやって祝儀の品を届けさせた。享保元年(1716年)10月には吉村が参詣して、鳳山が70歳になったことを賀す歌を詠んだ。鳳山は、その年の8月に五社明神社を、翌年3月には疱瘡神社を境内に建てた。他に、いつ作られたか不明な弁財天堂があった。臨済院は、安永3年(1774年)頃には塔頭を10、末寺を23持つ大寺院で、仙台藩の寺の序列で着座格とされていた。

6臨済院の由来

周囲は閑静な住宅地だが、実は過去に血生臭いことが起こっている。
逸話1(郷土史家:仙台の郷土史家・故三原良吉氏の著物より)
実はその臨済院跡は昔北條氏の亡命の地で’ヨシナカ’なる落ち武者がここに総勢19人で落ち延び、傷を洗ったのが敷地内にある井戸(昭和時代に訪れた三原氏は麦畑の中と言っているが、今の井戸は参道脇にあり真偽は定かでない…)であるという。彼らの亡命は十年後に露見するところとなり、50人ばかりの追っ手に取り囲まれ、一族はことごとく自刃して果てた。
W氏というヨシナカの家臣の末裔(三原氏によると、昭和期には臨済院跡の北側に居住していたとのこと)によると、それを家の氏神として祀ったという。井戸はどんな天気でも水量は変わらないという。(北條ヨシナカなる人物の出自や生涯については詳しくわかっていない)

ここは本堂のあったところである。このように人の頭ほどの大きさの石がぐるっと並べられている。土台の跡と思われる。跡地には石垣も残されている。本堂を始め、様々な建物が建っていた証である。臨済院は明治になって、寺領と藩の保護を失うと衰退し、明治20年(1887年)頃までにすべての堂宇を失い、廃寺になった。境内にあった弁財天堂だけが地元の人々に守られて残った。

昭和60年(1985年)に発掘調査が実施された。寺の東にあった山門跡、本堂跡と思われる石垣遺構、鐘楼の基壇、性格がはっきり確定できないが寺の石垣遺構、井戸跡が確認された。また、遺物としては江戸時代の陶磁器が多数出土した。

7本堂跡

逸話2
安永2年(1773年)1月21日に、寺内の木を盗伐しようとした樵夫(きこり)の頭と背を副寺(ふうす:禅宗における六知事の一つで金銭・穀物などの出入りをつかさどる役僧)の龍田が杵で打って殺した。行方不明になった樵夫を捜しに来た親戚に、龍田は樵夫を追い出したと答えたが、後に死体が見つかったため殺人事件になった。龍田には斬罪、住職には捜索に非協力的だったことにより蟄居の判決が下った。

8林:鐘楼跡

横町コメント
現地の説明書きにはこの二つの事件のことは一切掲載されていませんでした。どちらも遠い昔のことなので、多くのかたはこんなことがあったらしいということすら知らないのでないでしょうか?逸話2は固有名詞がはっきりと出てくるので恐らく事実と思われます。逸話1については古い話ということで言い伝えの域(三原良吉氏は昭和期に現地の北條ヨシナカの末裔を訪ねて知ったとしている)を出ませんが、落ち武者は周囲に多く居たらしいので信憑性は高い気がします。

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コメント

こんばんは

歴史ある地域に血なまぐさい逸話が多いと
感じます。
仙台ほど有名ではありませんが、居住地にも
同様の逸話があります。

URL | ichan ID:-

国見ヶ丘という町名だけに、見晴らしの良いところなのでしょうね…。
そういうところにあるお寺ながら、血生臭い伝説があるのですね…。落武者が10年後に見つかるというのも、怖い話です…。

URL | boubou ID:-

ichanさん、ありがとうございます。

おはようございます。歴史に接しますと
・華々しい話は勝者の筋から誇らしげに語られる傾向にある。
・ネガティブな話は封印される傾向にある。
・研究している史家が没すると地域の古老や文献(デジタルも含む)以外、調べる術がなくなる。
以上のような傾向にあると捉えています。この二話については語り継がねばと思い、掲載に至った次第です。特に逸話1については情報が朧ゆえ、着目しています。落ち武者と言われる北條ヨシナカなる人物が気になります。

ご配慮により本日も厚誼を頂戴しました。おはからいに感謝しています。コメントを頂きありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

三原良吉氏(1897~1982:元河北新報出版局長)は仙台郷土研究会に所属した著名な郷土史家です。三原氏の書いた著物を調べるには図書館に足を運ぶ必要があります。本記事は数年前に私が調べた資料を基に作成した次第です。落ち武者狩りの話は北條ヨシナの末裔のかたへの聞き込み調査もあるので、信憑性は高い気がします。

お陰様で本日もお引き立てを頂戴しました。おはからいに感謝しています。コメントを頂きありがとうございます。

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