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”仙台浪漫”なる言葉がある。皆さんはこの言葉に何を感ずるだろう。現在の仙台は多くの偉大な先人たちが残した歴史と伝統が深く息づき、昨今は東北の中心都市としての一面以外に歴史と文化薫る学芸都市としての面影さえ醸し出している。従ってその面影に浪漫を感ずるのはごく自然な成り行きとも言えるのことなのではないだろうか?

今の宮城県(仙台圏)の骨格が出来たのは仙台に藩制が布かれた416年前の1601年、そしてこの街の骨格を作ったのは言うまでもなく藩祖伊達政宗公である。宮城県内や岩手県旧伊達領のいろいろな地を回って郷土史を研究し改めて気づくことは政宗公の残した足跡の偉大さと抜群とも言えるその先見性である。
 
なぜ外様大名でありながらなぜ豊臣や徳川といった強大な権力に潰されずに仙台藩を残せたのか?なぜ仙台平野を豊かな米どころにできたのか?政宗公については戦国大名の一面のみならず、一人の偉大なリーダーとしても非常に興味をひかれるものである。宮城県に影響を与えた人物として、生誕450年を迎えた現在でも、彼の存在を上回る人物は見当たらないのである。

綱渡りとも言える彼の波乱万丈に富んだ人生を振り返る時、万海上人の生まれ変わりとされた彼の強運と抜きん出た才覚を感じざるを得ないのである。 宮城県人の多くは今でも彼のことを尊敬し崇拝している。彼をして、なぜそうせしめたのか?その謎に迫るイベントが今静かに開かれている。本日、私は息子とともに仙台市博物館に向かった。特別展「伊達政宗生誕450年」の特別展を見るためである。



伊達藩は大藩と言われるが、それはけして中世からのものではなかった。これは政宗の父、伊達輝宗の代(1580年くらい)の伊達の領土である。30万石という石高はけして抜きん出たものではなく、奥州の作法(政略結婚を繰り返し隣国の大名と争わない外交手段)による積み重ねがもたらした勢力であった。北方には30万石の葛西氏、南には奥州きっての名門・蘆名氏、西方には強国の最上氏、南には相馬氏などがひしめいていた。



伊達藩は政宗の時代に大幅に領土を拡充した。歴戦の勝利によって相馬を除く現福島県と新潟県の一部までが政宗の手に入ったのである。



その後、政宗の野望は豊臣秀吉に阻まれることになる。小田原攻めに遅参した政宗は領地の大半を没収され、替わりに今の宮城県北部と岩手県南部があてがわれた。



著者挨拶
政宗4000、秀吉130、家康100、信長30、皆さんはこの数字を何だと思われますでしょうか?実は戦国大名である彼らが生涯に書いた手紙の数の合計です。政宗は秀吉や家康意外にも多くの大名、家臣にあてた手紙を数多く書いています。その中には秀吉や家康に対して謀反の疑いに関するものもございました。政宗公の特筆するべきところは、その謀反の疑いを見事な申し開きによって、ことごとく、かい潜ったところです。

彼には、ずる賢く抜け目のない緻密な采配が常にございました。人の心を掴むために生涯4000通にも渡る手紙を書いた政宗公ですが、彼は天下人への謀反の疑いを免れるためにあらゆる手段を駆使しました。弟・小次郎を殺した振りをしたり、食い道楽やディレッタンティズムを装ったりもしました。時に勇み足もあったようですが、それを見るにつけ、彼も血の通った人間であったと察し私は胸を撫で下ろしています。(笑)完璧な人間など未だに一人も存在しませんが、ごく稀に、抜群の裁量と運気を武器として、己の人生を切り拓いた人物は歴史上に存在します。私は彼はそんな数少ない人物の一人だったと認識しております。

時に、私は彼が居なければこの世に生まれていなかったのでは?という想いによく駆られます。或る人は躁鬱病を患った私の妄想と言いますが、これはまんざら嘘ではない。それは私の生まれた石巻自体が政宗公によって人工的に切り拓かれた港だったからです。私の祖先はかつて岩手県の北上川流域に住み、葛西氏に仕えた家臣で、葛西氏領地没収後伊達に抱えられ、帰農したものと私は推察しています。(祖父方先祖代々の言い伝えによる)その末裔であるO家一族のことは今後、私の執筆でブログに登場するかも知れません。さて、本日は特別な日ゆえ、そろそろだいぶ酒も回ってきました。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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