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3871番目の投稿である。地元の新聞である河北新報に寛文事件(伊達騒動)の中心人物とされる原田甲斐宗輔一族供養会(正式名称「三地蔵尊供養会」)の解散と、新たな石碑の設置のことが掲載された。寺は仙台市青葉区新坂町の荘厳寺だが、原田甲斐の菩提寺ではない。供養会のメンバーは寺の檀家や歴史愛好家だということである。

2004年から毎年活動(伊達騒動の講座や般若心経の写経など)を行い、2019年まで供養会を開催してきたという。新型コロナ流行に伴い、4年ほど会の開催を自粛してきたが、メンバーの高齢化という事情もあって活動に終止符を打つことになった。

1三地蔵尊供養会

これを受け、私はさっそく荘厳寺に向かった。私は数年前に伊達騒動のことを歴史随筆として書いたこともあり、過去に何度も足を運んだことがある。本日の16日は送り盆ということもあり、新坂通も閑散としていた。

2新坂通

いつもなら車が止まっている荘厳寺の門の前だが、今日は遮るものは何もなく、思った通りの撮影ができた。

3全景

荘厳寺の門である。近くで門をよく見ると無用な”ほぞ穴”が柱にあり、どこか不自然だが、実は寛文事件で知られる仙台藩家老・原田甲斐宗輔の片平丁(現仙台高等裁判所・家庭裁判所敷地内)にあった屋敷門を移築したものと伝えられ、逆臣の門ということで組み立て時はわざと逆さまに組まれたとされる。そういう理由でこの門は「逆さ門」とも呼ばれていたのである。

但し、原田甲斐を逆臣とする説は、論拠が乏しいことであり、山本周五郎が『樅ノ木は残った』で描いた忠臣(仙台藩存続の為に、すべてを捨てて身を捧げた)であったとする見方を否定するものは何もない。すべては闇の中である。原田甲斐が逆臣か、忠臣かの話はしばしば論争を生むが、この場はそういう場でないことをお断りしておきたい。

4門

三地蔵尊を挟んで石碑が建つが右側が、今回新設された石碑である。

5供養碑全景

文中の犠牲となった方々とは原田甲斐の家臣のことを示すものと思われる。

6新しい石碑文字

横町コメント
2014年に或る季刊誌に寄稿した私は、一人の読者から「原田甲斐は逆臣だった。それなのに横町は全く逆のことを書いた。それを思うと悔しくて夜も眠れない」という抗議(遺憾ながら誹謗中傷も入っていた)を受けました。これには閉口しましたが、それにめげることなく、私は後日仙台市博物館の学芸員に、寛文事件のことを聞きに尋ねました。

その学芸員からは「寛文事件に関しては誰が忠臣で誰が逆臣であるのかを決めることは出来ない」と言われました。事件の真相は闇に葬られたということです。歴史を探っているとよくこのようなことに遭遇するわけであり、”先人らによってもたらされた固定概念による思い込みは適格とは言えない”ということです。但し大きな流れから言って原田甲斐を弔う人々は多いです。彼の首は宮城県登米市の東陽寺に葬られ、熱心な信徒によって毎年法要が営まれているようです。

記事の内容とは異なりますが改めて公言します。私はコメントをやり取りするようなブロ友を募集しています。但し、誰でもいいと言うわけではありません。ヘッダーの文言「大人の社交場です。記事の内容と関係のないコメントや奔放・自己本位なコメントやフランク、論議は望んでいません。仁と礼節を重視したお付き合いをさせて頂いております。」を熟読して頂きたい所存です。

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7六百横町
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コメント

こんばんは

伊達騒動の中心人物が忠臣か否かは不明ですが、
個人的には『樅ノ木は残った』の筋書きを
信じたいです。
供養会が開かれてきた経緯を参酌すると、
決してネガティブなもので無かったと感じます。

URL | ichan ID:-

ichanさん、ありがとうございます。

おはようございます。寛文事件のことを書くと、たまに忠臣と逆臣についての意見を頂戴します。決めつけはなるべく避けたいのですが、ある程度の見切りはモチベーションを高める上で必要と考えています。見切りと決めつけは似ているようで一線を画します。原田甲斐を逆臣とするかたの見解は痛烈なものでしたが、今思えば往時駆け出しだった自分への洗礼と受け止めています。山本周五郎の『樅ノ木は残った』が寛文事件の真相に一石を投じたのは間違いないと解釈しています。

歴史を扱うにはこのようなリスクが付きまとうわけですが、それにめげることなく記事を書きたいと考えています。ご配慮により本日も有意義なご感想を頂戴しました。おはからいに感謝しています。コメントを頂きありがとうございます。

原田甲斐一族の供養会の解散、残念ですね…。メンバーの高齢化ということだそうですが、このようなことは、これからいろんなところでも起こりそうなことですね…。組織に若手が入ってこない限り、避けられないことです…。

話が変わりますが、いわゆる地域のお世話をするボランティア組織でも、同様のことが起こっており、後継者である若い人達を勧誘することが大きな課題となっております…。個人的なことしか考えない風潮の広まりは、社会全体的な余裕のなさから来ているのかなとも思っております…。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

山本周五郎は『樅ノ木は残った』を書き、これまでの原田甲斐への見方(逆臣)を大きく変えたものと捉えています。このことが供養会の結成に関係した可能性がある気がします。供養会は解散しましたが、石碑によりその志は後世に残るものと考えています。

寛文事件においては、忠臣や逆臣にこだわることなく、侍とはどんなものだったのか?にスポットを当てるべきと考えています。歴史随筆駆け出し時に手荒い洗礼を受けた私ですが、それをバネに今後も精進して参ります。おはからいにより本日も厚誼を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

こんばんは。
活動を続けてこられた会があったことを初めて知りました。
供養会のこれまでの活動もそうですし、横町さんがブログや季刊誌を通して原田甲斐や伊達騒動を紹介されたことで、初めて歴史を知った方々も多いと思います。

URL | クオ ID:-

クオさん、ありがとうございます。

おはようございます。三地蔵尊供養会は2004年からの活動ということで驚いています。高齢化が進んだというのも解散の理由のようですが、原田甲斐の志を後世に残したいというのが趣旨と受け止めています。真相は闇の中ですが、伊達騒動において捨て駒になってでも藩の存続を考えた侍は多かった気がします。

実は伊達安芸宗重も涌谷では英雄とされますが、違った見方(自分の領地にこだわった)もあります。但し藩主の伊達綱村からは死後に”盡忠”という直筆の書が寄せられました。このあたりをどう捉えるかということですね。例のVHSビデオ大河ドラマ「樅ノ木は残った」総集編の上下を宮城野区図書館で見てから、しばらくはYouTube上にも動画が存在し、何度も見ました。

あくまでも個人的解釈の域は出ませんが、大きな流れから言って、原田甲斐と伊達安芸は恐らく忠臣であったと解釈しています。

これまで多くの先人が伊達騒動に対して触れてきましたが、自分は単なる鎖の一片で十分と考えています。アナログでの資料を発掘して、それまでにデジタル上にないものを残す。これだけで十分と認識しています。
ご配慮により本日も有意義なご感想を頂戴しました。おはからいに感謝しています。コメントを頂きありがとうございます。

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