fc2ブログ


リンク動画解説
最近、毎日のように時代劇チャンネルで「木枯し紋次郎」の再放送を見ている。『だれかが風の中で』は、1972年(昭和47年)にリリースされた上條恒彦のシングルで、フジテレビで同年放送された『木枯し紋次郎』の主題歌である。

時代劇にこのような曲『だれかが風の中で』を合せたのは冒険だったのかも知れないが、不思議なほどマッチしている。その理由としては歌詞「どこかで だれかがきっと待っていてくれる。血は流れ 皮は裂ける。痛みは生きている印だ。 いくつ峠を越えた。どこにも ふるさとはない。泣く奴は誰だ。この上 何が欲しい。けれども どこかで お前は待っていてくれる きっとお前は風の中で待っている」によるものが大きい気がする。

古いブロ友は私の素性やキャリアをご存じだが、自分は定年を果たす前の数年間、木枯し紋次郎に成り切ったことがあった。笹沢左保の往年の作品「木枯し紋次郎」は任侠ものである。主人公の紋次郎は堅気でない渡世人という境遇であり、一見やくざやチンピラを想像するがそうではない。彼の生き方を正確に描写するならば、一匹狼という言葉がもっとも適切である。

むろん、一匹狼にとって頼る者などない。頼れるのは己の腕と長脇差のみである。50を目前にしてうつを発症し、組織から冷遇された自分は耐えに耐えた。家族や住宅ローンがあったので辞めるわけにはいかなかったのである。その結果、同じ境遇の身として木枯し紋次郎の生き方に強く惹かれたのである。

1紋次郎

不思議なことに木枯し紋次郎の行く先には面倒なことが待ち受けていた。人生もそんなものなのかも知れない。「あっしには関りのねえことで…」と事なかれ主義に徹していても、火の粉は容赦なく降りかかってくるのである。「降りかかった火の粉は振り払わなければならない」が、これは「売られた喧嘩を買う」と同意ではない。やむを得ずというニュアンスなのである。

確かに吹く風に靡く柳の木のような生き方はスマートである。だが背水の陣に追い込まれた往時の自分としてはそんな悠長なことなど言ってられなかったのである。主従関係を強いられ靡けば退職に追い込まれる。従って、降りかかった火の粉を振り払う為には、木枯し紋次郎に成り切る必要があったというのが事実に最も近い表現である。

2火の粉を振り払う

横町コメント
3905番目の記事になります。一見クールで感情がないとも思える紋次郎ですが、これは思い違いであり、ストーリーの進行とともに変化していくものとなります。紋次郎はいつも自分の意志とは裏腹に徐々に事件に巻き込まれ、容易には振り払い切れないような、面倒ごとに纒わりつかれるのです。但し紋次郎は消して自分から手は出さないし、口先だけの挑発にも乗りません。長脇差を抜くのは相手から斬りかかられた場合のみです。しかも相手を選ぶのです。堅気や弱い者は相手にしません。(作品には「堅気衆、女を斬る長脇差は持ち合わせておりやせん…」というセリフも出てくる)

そして火の粉が振りかかった際に、人間離れした無機質な神経の持ち主と思われていた彼にも感情が存在するのに気づきます。実は彼は義理堅く、人情に弱いということです。自分がどんな人間か?ということについては、皆さんの想像にお任せします。渡世人であっても様々なシチュエーションを弁え、常に中庸を心がける。そしてけして出しゃばった真似はしない。これが私のスタンスです。これはもちろん、ブログ運営にも反映させて頂いております。

本日も最後までご覧頂きありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。
 ▼▼▼

ここは大人の社交場です。いかなる理由があっても、記事の内容と関係のないコメントは即座に削除します。奔放・自己本位なコメントやフランク、論議も望んでいません。仁と礼節を重視したお付き合いをさせて頂いております。スパムや準スパム行為(記事の内容から逸脱し、自らのサイトに誘うようなコメント)を見掛けた場合は然るべき措置を取ります。

6六百横町

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)