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夜勤明けの本日、私はJR仙石線に乗って塩竃(塩釜市)に向かった。震災から12年が過ぎ、塩釜の街もだいぶ傷が癒えたような印象を受けるが、昔のような港町特有の活気は影を潜めた印象である。それでも私の足取りは軽かった。それはアートを鑑賞するというはっきりとした目的があるからだ。画像は本塩釜駅である。塩竃は仙台から北東に17キロほど行ったところに位置する人口5万3千人の町である。

1本塩釜駅

杉村惇美術館は昭和25年に建造した旧公民館本町文庁を改装したものである。いかにも昭和然としているが、展示されている絵画とは不思議なほどマッチしたものを感じる。

2建物全景

杉村惇美術館の位置をgoogle地図で確認して頂きたい。

3google航空写真

インターネットに常設展を撮影した広角画像があったので引用させて頂いた。

4室内

杉村惇略歴
明治40年(1907)、東京市牛込区(現新宿区)に5男4女の末子として生まれる。戦後の昭和21~昭和39年頃(杉村氏の年齢は39歳~58歳)に塩竈で暮らし、塩竈の風景や鮮魚を題材に、数多くの油彩画を描く。静物画を得意とし、「静物学者」の名で親しまれる。昭和2年(1927)、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学。岡田三郎助(帝国美術院会員・第1回文化勲章受章)に学ぶ。在学中の昭和5年(1930)、静物画で第11回帝展(帝国美術院展覧会)に初入選するなど、その才能を高く評価された。

 昭和20年(1945)、戦災により自宅・アトリエ、作品のほとんどを失い、東京から仙台に疎開後の翌年、夫人の縁故により塩竈に転居する。当初は築港魚市場の向かいに居を構えていたこともあり、活気ある港町・塩竈は杉村画伯に多くの影響をもたらした。昭和40年(1965)、東北大学や宮城教育大学で教鞭をとる利便性などから、塩竈から仙台市八幡町へ転居。

昭和45年(1970)には日展審査員、その後は評議員も務めたほか、様々な美術団体の運営に参加、結成に尽力するなど芸術文化の振興に大きく貢献する。物の〈存在と空間〉を追求し続け、作品への熱意は80歳を越えても絶やすことはなかった。平成13年(2001)、93歳で逝去。

右下の「婦人像」(河北美術展入選)は1933年(杉村画伯26歳)の作品である。新進画家として脚光を浴びた頃のものだが、誠実な画風を感じる作品である。モデルの表情が柔和だが、杉村氏自身も温厚で穏やかな人となりであったという。

5婦人像

実は傾向として静物画が圧倒的に多い。惇はそのことについてこう語っている。「静物画は自分の世界を創りだしていくところに深い興趣がある」彼の遺した静物画を見て”誠実さ”を感じるのはけして自分だけでないことだろう。杉村画伯の作品に際して思うのは70代、80代の作品(生物画)の多くが原色に近い派手な色彩(赤や黄色)を使っていることである。このあたりを意識したかどうかは定かでないが、彼の感性が実年齢以上に若かったことに所以することなのかも知れない。

6静物画

アトリエのレプリカである。自らの世界にどっぷりと浸かって作品と向かいあったのだろう。

7アトリエ

裏のほうから美術館を見てみた。身障者の利用に供するために、後にエレベーターを設置している。

8中庭

横町コメント
3971番目の記事です。杉村画伯は極めて哲学的な言葉を遺しています。それは「一朝一夕でいい絵がかけるわけはない。命を削るようにしないと、本当にいい絵はかけません」と述べていることです。命を削った割には93歳まで生きた彼ですが、温厚な人柄が長寿をもたらしたのかも知れません。

70代、80代になっても精力的に作品と向かい合った画伯には頭が下がる思いです。自分も70代、80代で彼のようにポジティブに生きられるか?自信はまったくありませんが、是非そう在りたいと考えています。

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9六百横町
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