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随筆「平安時代を奔放に生きた貴族の墓を訪ねて」
私は以前から名取市の農村部を走る東街道というものに限りない憧憬を感じていた。奥州合戦で源頼朝の率いた大軍が通過したのは東街道だったと言われている。旧道の多く消え去った昨今、その東街道の一部が往時の面影を留めている場所があるという。東街道への尽きない興味とともに、私の脳裏にふと浮かんだのが平安時代の貴公子・藤原実方(実方中将)の存在である。

※藤原実方
生年不詳~998年没。摂関家の流れをくむ由緒のある家柄に生まれ、平安時代の中頃(990年頃)花山・一条天皇に仕えた公家で、中古三十六歌仙の一人。美しい容姿をそなえた貴公子として知られる。藤原道綱、道信や源宣方などとの親交 があった。和歌の才能に優れ、清少納言ら多くの女性との贈答歌を残す。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首入集。 殿上で三蹟の一人に上げられる藤原行成とのいざこざで、一条天皇より「歌枕を見てまいれ」と陸奥国守に左遷され、陸奥の地に下った。 
ある日、藤原実方が出羽国阿古屋の松を訪ねた帰り、神社の前を通る際に、村人より「霊験あらたかな神様なので馬から下りて通るよう に」と言われたが、これを無視し馬に乗りながら過ぎようとしたため神罰が下って落馬し、その怪我がもとでこの地で亡くなったと伝えられる。

東街道と道祖神社
10月半ばの或る日、私は名取市笠島の道祖神社(別名・佐倍乃神社)を訪ねた。県道39号線沿いの塩手集落の信号機のそばに「道祖神社」の立札が立っている。路地を西に50メートルほど進むと、間もなく神社の赤い鳥居が現れる。
※道祖神社の鳥居


鳥居を潜る前に、私はふと左手のほうの小径に心を奪われた。鳥居から南に真っ直ぐ伸びている道なので、参道とも取れなくもない。どうやらこの小径が東街道らしい。

※往時の縁を偲ばせる現在の東街道


東街道の両側は竹林となっているが、東側の林には杉木立も混ざり林もまばらで畑地が広がっている。



藤原実方を始め、多くの古人がこれと近い光景を見たのではないだろうか?そう思うと、大河の如き悠久の時の流れに飲み込まれて行く一人の人間の儚さを感ぜずには居られなかった。

実方の墓へ
道祖神社から北に七百メートルほど行ったところに彼の墓があるという。県道39号線を北上して彼の墓がある北野地区を訪れた。欄干に実方橋と書かれた太鼓橋を渡ると松尾芭蕉ゆかりの石碑と西行法師ゆかりの「かたみのすすき」がある。

1689年、松尾芭蕉が奥の細道で「笠島はいずこ五月のぬかり道」と詠んでいる。折りしも五月の雨で道はぬかるみと化し、残念ながら実方の墓所にたどり着けなかった芭蕉の無念さがにじみ出た歌である。 芭蕉が実方の不遇に思いを馳せた五百余年前、この地に西行法師も訪れ、在りし日の実方を偲んでいる。

※西行法師
1118年~1190年。姓は佐藤、名は義清、別号に大宝房、法名を円位。武家に生まれ鳥羽上皇に北面武士として仕えるが、二十三歳で出家する。平清盛・時忠、崇徳院・徳大寺実能らと交わる。仏道修行、和歌に励み、諸国(陸奥~四国、九州)を遍歴。仏教観を基として独自の抒情歌を確立。花と月の歌がおおく、独自の歌風は飯尾宗祇、松尾芭蕉らに影響を与える。 『新古今集』に九十四首が収められ、家集に『山家集』等がある。
西行法師は晩年近くなってこの地を訪れ「朽ちもせぬその名ばかりを留めておきて、枯野のすすきかたみにぞ見る」と在りし日の実方を偲んだ。 

※実方の墓の前にある西行法師の歌碑


西行法師の歌碑の後方には実方の墓がある。墓荒らしにでも遭ったのだろうか。かつては五輪塔だったとされる墓の面影は今はなく、土饅頭かと見間違うばかりの粗末なものである。

※藤原実方の墓


’’五月闇倉橋山のほととぎすおぼつかなくも泣きわたるかな’’
これは春宮(後に三条天皇となる居貞親王と思われる)に献上した扇絵に添えられた歌である。光源氏のモデルとも言われる彼は風雅を己の友とし、自由奔放に生きたに違いない。風流を殊の他好んだ彼は、陸奥行きなど、さほど不満を感じなかったのでないだろうか。周囲には刈田も広がり、空には悠然とトンビが舞っている。近くの農家の庭先に目を移すと、柿の実もだいぶ色づいてきたようだ。私は平安時代の貴公子のエスプリと孤高を脳裏に刻み、秋深まる此の地に別れを告げた。  
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
著者挨拶
私は某印刷会社からの依頼で、或る企業の季刊誌に寄稿しています。本記事はその原稿です。このエッセイを書き上げるのに三度ほど図書館に通い藤原実方の文献を読みあさりました。彼は清少納言とも親密な交際があり光源氏のモデルの一人という説さえございます。謎の多い人物ですが、そんな彼を慕って西行や芭蕉が訪れています。その理由を知るには彼の遺した和歌を知ることです。女性との贈答歌の多い彼ですが、「五月闇倉橋山のほととぎすおぼつかなくも泣きわたるかな」というような風雅な歌も遺しています。(収遺集・夏・124)名取市は仙台市の隣町ですが、まさかこのような長閑な土地に平安時代の貴公子が葬られているとは夢にも思いませんでした。己の勉強不足を恥じております。それでもこの感動を皆さんに伝えられれば二回も取材に及んだ甲斐はあったと考えます。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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コメント

No title

こんばんは

全くお名前も知らない平安貴族のかたです。
西行や芭蕉も偲んで当地を訪ねるほどの歌人だったのですね。
素朴な土を盛っただけ墓所にかえって真実の感を強くします。

ミックさんと言えば戦国武将の作品がおおいですが
平安貴族にも広がりましたね。
このような歌人が陸奥国に左遷されてきていたのですね。

URL | つや姫日記 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

今晩は

往時を偲ぶ参道が今も感じられるって凄いですね

素朴って良いですね
ナイス☆

URL | 62まき ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> つや姫さん
トップバッターを切って頂きありがとうございます。彼が左遷されて此の地に来たのかは数説があり、想像にお任せしたいと存じます。

何を隠そう私自身が左遷された身ですが、ちっともそれを認めなかった。例え不遇の身であっても自分に不利なことは絶対に認めない。それだけ思い込みが激しいのかも知れません。(笑)

或いは彼ら(人事担当者)にその意図がなかったのかも知れませんが、左遷されて嫌気が差すか差さないかは己次第にございます。私は嫌気が差して自滅した人物を何人も見てきていますが、やはり確固たる信念がないとそういうことに振り回されかねない。

記事には書きませんでしたが、実は彼はみちのくで子孫を残しています。彼は神を恐れることのない自由人でした。これを期に平安時代の出来事にもコメント出来るような裁量を身につけたい所存です。本日はコメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 62まきさん
想像を巡らし、まき様が仰せになられた「素朴」とは東街道を指すと察しております。
もしここで、まき様から「この日の心境は如何に?」とお訪ねになられたなら、私は「正にタイムマシンに乗った心境です」とお答えすることでしょう。

まき様のおはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

今晩は、

今、振り返れ平安時代の貴公子とも思われる藤原実方の墓が
近くに葬られていたのですね、
光源氏のモデルとは尚更、興味が湧いて来ます、
歴史に疎い自分には藤原実方の名前さえ知りませんでした、
この記事を季刊誌に寄稿されていたとの事で詳しい経緯が
わかりました、
歴史の一片を齧った気分になれました、
有難うございます。

URL | 雲MARU ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

平安の時代を彷彿させる内容で当時の風流な歌の世界も
交えて充実していますね。
芭蕉や西行法師が訪ねているというのは歌の世界では
有名な人だったのですね。
ナイスです。

URL | ことじ ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

藤原実方(実方中将)、紹介されているように、たぶん男前で和歌の才能にも優れた風流人だったのですね…。。。後世の、風流人にこれだけ愛された人ですからね…。。。

しかし、政治的能力には優れず、家柄が良かったのにもかかわらず中央から追われてしまうのですね…。。。それにも関らず、彼はその地での生活を楽しんだのではないでしょうか…。。。風流人はどこに居ても風流感を失わないもの…。。。

美貌、才能を兼ね備えた貴公子ではあったものの、霊験あらたかな神社の前を乗馬のまま通り過ぎるというのは、そういった完璧な彼にも、抜けていたところがあるというユーモラスなエピソードのようにも思えます…。。。後世の人々は、そういう面にも共感を覚えたようにも思えますね…。。。

本日も、すばらしいエッセイをありがとうございました…。。。

URL | boubou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
色々な謎に包まれながらも、藤原実方は女性から見ても魅力のある方で才能もある方だったのですね。
最後の終わり方を思うとベールに包まれたような
ミステリアスさが増しますね。
現場を訪れ色々と調べ上げられた事で経緯が知れました。興味深い記事をありがとうございます。

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミック様へ
ミック様にこの名前をお聞きするまで全く知らない方でした。殿上でのいざこざを起すとなるとかなり奔放な方であったと思われます。それが光源氏のモデルとなった所以ではと勝手に思います。遠く東北に左遷になってかえって自由に動けると感じたのかも知れません。おそらく神仏も信じなかった方であったと思われます。だからその注意にも応じず。神社の前を馬に乗ったまま通り落馬となり。それが元で亡くなられた。これも自由に生きた証でもあると私は思います。勉強になりした。ナイスです。有難うございます。

URL | 不あがり ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 雲MARUさん
実方中将の名前は知っておりました。大変恥ずかしながら、この御仁が和歌に才能があった貴族と知ったのは取材を思い立ってからのことでした。灯台元暗しとは正にこのことと捉えています。
これを機に広い時代に渡ってものが書けるよう研鑽を積み、創作の範囲と厚みを増して行きたい所存です。

この人物の型破りでロマンチストなところが興を誘います。才能は遠く及びませんが左遷されたところなど、自分自身に似たところを感じています。

貴兄のおはからいにより、本日も格別なる追い風を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> ことじさん
このエッセイを書き上げるのに図書館に入り浸り資料をあさりました。代表的な恋歌(贈答歌)はありきたりでいろいろな著物に載っていたのですが、風流人を彷彿させる作品がこの「五月闇倉橋山のほととぎすおぼつかなくも泣きわたるかな」です。
これがないと、ミックとしてのオリジナル性が出せないと察しての掲載にございます。

ことじ様におかれましては、いつも真摯なご対応を頂戴し大変感謝しております。本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> boubouさん
この時代にまで遡りますと、人物考証では想像の範囲の比率がかなり高まります。後世になって彼は赤い雀になったとかなど、様々な逸話も生まれたようです。それだけ多くの人の気を引いた人物とも察しております。

型破りで自由奔放な振る舞いも、この時代の公家を考えれば異端児と取られたのかも知れませんが、一方で和歌の才能に秀でていたがゆえに、ここに魅力も感じます。奥州での彼の足跡がミステリアスな部分でもございますが、これは今後の自分の研究課題と認識しております。

貴兄のおはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> joeyrockさん
藤原実方は女性にもてたようですね。教養があって型破りなところがその理由なのかも知れません。贈答歌の多い彼ですが、私は敢えて俗(他の随筆の殆どが恋歌を扱っている)を嫌い、風流に走った和歌を選び掲載に至りました。

季刊誌に載るからには誰に見られるかわからないので緊張感もございます。そのプレッシャーを取材へのエネルギーに買え、これからも精進して参りたい所存です。

joeyrock様のおはからいにより、本日も慈悲を賜りました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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> 不あがりさん
仰せの通り、彼はどこにでも居るような和歌人ではございませんでした。多くの公家人なら己の歌を批判されて、ぐっと我慢するところを我慢出来なかった。即ち、気が短かった。恐らく神なにするものぞという無神論者のようなものも持ち合わせていた。このへんは公武と時代の違いはあれ、織田信長と類似を抱きます。

私はこうした型破りな面が、却って女性にもてたのでは?察しております。貴兄のおはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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