fc2ブログ
独眼竜政宗
「独眼竜政宗」はあくまで山岡荘八の創作であるが、大筋で史実に近いものがある。大筋と言ったのは近年に見つかった新しい資料の研究により、伊達政宗が実弟を殺したというこれまでの定説が変わりつつあるからだ。元仙台市博物館館長の佐藤憲一氏の研究で、殺したというのは偽装工作だった可能性が強くなってきたのである。(政宗の実弟小次郎は真言宗金色山吉祥院大悲願寺に向かい入れられ、住職となったということが、寺の過去帳から窺える)極論に及べばこの大きな食い違いを除けば、9割方大筋で史実に合っていると私は考えている。


さて今回、記事に独眼竜政宗第48話をリンクさせたのは、政宗が瑞巌寺を造った概ねの理由を皆さんに知って頂くためである。もちろん史実を語るのに100パーセント正しいということは有り得ない。但し、都度史跡や博物館、或いは歴史書などで伊達政宗という武将の生き方に触れ、大きな流れを見据えれば、この第48話で放映された瑞巌寺建立の趣旨は史実に近い気がするのである。時間のないかたは、せめてスタートから1分50秒までご覧頂ければと思う。


ところで、私は昨日瑞巌寺を訪ねる前に宮城県の郷土史先賢の故・紫桃正隆氏が寄せた瑞巌寺の随筆「知られざる瑞巌寺の実態」を読んだが、読み進めるうちに氏の考えに共感を抱くに至ったのである。それはこの瑞巌寺を自分の目で見て、単なる臨済宗の禅寺という機能を遥かに超えるものを感じたからである。

ここで政宗によって瑞巌寺が建てられる前の寺についても触れておきたい。比叡山延暦寺第三代座主である慈覚大師円仁がこの地に天台宗延福寺を建立したのは828年(天長5)、その後四百余年を経て1248年(宝治2)に、北条時頼の代に臨済宗円福寺と改められた。


臨済宗円福寺その後、更に約三百五十年後の関ヶ原の戦いを経て、仙台に居城を移した伊達政宗が同時に神社仏閣の造営も進め、瑞巌寺の建立が決まった。この時、政宗は本堂の縄張りに自ら立ち会うなど並々ならぬ意欲を見せたとされる。1604年(慶長9)に着手したこの工事は山城、紀伊などから名工130余人を呼び寄せ、五年の歳月を経て1609年(慶長14)に完成した。尚、寺派に関しては政宗の師僧であった虎哉和尚の関係で妙心寺に属するに至った。


一部の史家の間で、この瑞巌寺は、仙台藩が幕府から攻められた際、藩主(政宗)が最期を遂げる場所とまで位置づけているが、要害の立地として考えるならば、いざ戦となった際に非常に攻めづらいものがあると想像がつく。即ち、東には無数に点在する松島の島群があり、水軍の大群が押し寄せるにしても躊躇せざるを得ない地形であること。また仙台方面からのアクセスが長老坂という狭小な道一本に頼らざるを得ない(鉄砲隊の待ち伏せを喰らう)ことなどが挙げられる。総門は多くの場合寺格を表すものだが、この総門も瑞巌寺の発するオーラに負けないものを感じた。


長い参道を歩いてみて気付くのは北側の崖に僧侶たちが修行した岩窟が多く見られることである。これは瑞巌寺と目と鼻の先にある雄島の趣によく似ている。(瑞巌寺のほうが規模の大きいものが多いが)
 

 瑞巌寺の各建物の位置をご覧願いたい。参道の突き当たりにあるのが本堂である。(約1.5倍に拡大可能)
 

 残念ながら、本堂の直前の中門は現在改修中の為工事用のシートが張られていた。中門を潜ると境内には政宗が朝鮮から持ち帰った臥龍梅(紅白)が植えられていて、往時の縁を残している。 


間口38メートルに及ぶ本堂は国宝に指定されている。内部は残念ながら撮影禁止となっている。


左の建物は本殿に繋がっている御成り玄関(藩主や客人を招き入れる玄関)である。


本堂の間取りをご覧願いたい。(約1.5倍に拡大可能)
左上の上段の間に注目して頂きたい。



室内に関しては、参道の脇に襖の写真が展示されていたので参考にして頂ければ幸いに思う。京都に発した桃山文化がこうしてみちのくの地でも見られるのは感動に価することである。政宗の文化人としてのセンスと多岐に渡る人脈を改めて、見せつけられる気がする。



さて、先ほど述べた本堂の上段の間であるが、表向きには藩主の詰めるスペースであるが、すぐ脇には武装した武士千人が伏せるスペースが隠し部屋が用意されている。また9センチにも達する畳は床下からの武器攻撃への防御と、いざとなった際の「弓矢用の盾の替り」となることを意識して用意されたものとも察せられる。(紫桃氏の見解)



本堂を出た後で棟違いの庫裡に行った。本堂とともに政宗の美意識を感ずる意匠だが、煙抜きは城郭で言う櫓そのもので、ここから押し寄せる敵を銃や弓で狙い打てる機能も有している。やはりこれは要塞と言ってよく、どう見ても禅寺の庫裡としては不自然なものを感じる。



政宗としては幕府に勝ち目はなくても、ここを己の死に場所(玉砕の場)とする覚悟があったと見ていいのではないだろうか。政宗の美学は朝鮮出兵時の奇抜ないでたちや、自らが戦地で袖を通した派手な陣羽織の衣装などを見れば明らかだが、ダンディズムとも言える彼の哲学は、己の身が滅ぶまで押し通さねばならないもの(滅びの美学)であったらしい。私は今回瑞巌寺を見てそう感じるとともに、武士道の真髄について改めて学んだ気がした。

著者挨拶
この瑞巌寺とて幕府の大軍が押し寄せれば、攻め潰されてしまうことでしょう。しかしながら、幕府に対抗出来るか出来ないかをもって、この寺が実質的な城であるかどうかを論ずるのは思慮不足と捉えます。即ち、武士には死ぬに相応しい場所というのがございます。

私は紫桃氏の意見を支持し、この瑞巌寺は政宗が自ら切腹をするに相応しい場所に位置づけたものと捉えています。真の侍なら誰しも死に際も美しくと考える所以にございます。さて結局のところ、幕府から攻められずに済んだ政宗です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。



関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)