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仙台藩の石高は幕末まで62万石とされたが、江戸時代中期の実質的な石高は100万石を超えた。本日はその立役者となった二人のカワムラという人物にスポットを当てたい。
最近、私は仙台市図書館から借りた一冊の本を読んでいる。元海上自衛官である長内國俊氏が書いた「河村瑞賢」という伝記である。本書は非常に内容の細かい本なのでYOU TUBEで概要をご覧願いたい。



河村瑞賢 東廻り航路を拓く

但し、宮城県には河村瑞賢よりも、知名度の高いカワムラが居る。川村孫兵衛重吉である。

川村孫兵衛重吉(1575~1648)
天正三年長州(山口県)に生まれる。毛利家に仕え、二十代前半、伊達政宗に抱えられ家臣となる。治山治水に優れた技術を発揮、政宗の命令で貞山堀開削工事等の他、北上川改修工事の責任者となる。工事は1616~1626に至り、工事費捻出のため自ら借財に及ぶ。工事現場に泊まり込むなどして労苦を重ねる。この大改修により石巻から盛岡に至る舟運が開かれ、葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻は一躍米の集散地となる。河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米蔵が立ち並び、江戸へ米を運ぶ千石船が往来し繁栄を極めた。この治水に伴って北上川流域では三十三万石余の新田開発も行われた。工事完成後は石巻に永住し73年の生涯を終える。



川村孫兵衛重吉の功績によって仙台藩の米が江戸に出荷されたのは1620年のことであった。(実質的に石巻港からと見られる)



このあたりの前後関係について、わかりやすく整理してみた。
1601年、伊達政宗、毛利浪人の川村孫兵衛重吉を召抱える。
1616年、伊達政宗、川村孫兵衛重吉に北上川流域(現登米市~石巻市)の治水工事を命じる。この工事で北上川は従来までの追波川(雄勝へ注ぐルート)のみでなく、石巻にも注ぐようになる。
1620年、仙台藩の米が初めて江戸に向けて出荷される。その後は房総半島沖などで遭難が多発し、より安全な銚子~潮来(いたこ)経由で利根川に至るルートが主流となった時期もあったが、期間がかかり過ぎるという問題があった。
1636年、伊達政宗死去
1660年代~、河村瑞賢東回り航路を開拓、荒浜(現宮城県亘理町)の港の整備などを行う。
1671年、荒浜港を基点とした東回り航路を使い、仙台藩の米を江戸に大量に送ることを可能とした。
1720年頃、仙台藩の実質的な石高が100万石を突破する。(この頃、江戸で消費される米の半分~三分の二は仙台藩の米であったとされている)
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では、河村瑞賢とは一体どんな人物だったのか?
河村瑞賢(かわむらずいけん 1618~1699)
伊勢(三重県)出身、東回り航路のほか、出羽の国酒田からの西回り航路を開拓した江戸時代の豪商。貧農の家に生まれ、土木工事の車力(人夫)を経て、漬物屋から土木建築業に身を転じる。明暦の江戸大火では材木の買い占めで利益をあげる。鉱山や新田の開発、東廻航路・西廻航路の整備淀川治水のための安治川開削などの事業を手がけ、後に旗本にとりたてられる。

詳しく知りたいかたはリンク動画をご覧願いたい。



それまで遭難の多かった房総半島近くの航路に対して、ある船の船頭は風向きによって偶然に伊豆大島に到達、その後南西風に乗って安全に江戸に到達したという。



その船頭の教訓が生かされ、その後はリスクを伴う房総半島沿岸のルートの航行は避けられ、これに代わって房総半島沖~下田、三崎、大島ルートが主流となっていった。



東回り航路を開拓した河村瑞賢は西回り航路の開拓にも着手し、これも開拓し快挙を成し遂げた。北は酒田から佐渡を経て西回りの航路は日本海側にも多大な文化や経済の発展(上方文化)をもたらしたのである。



著者挨拶
最近セカンドライフの就職活動で歴史関係の記事が減って参りましたが、けして疎かにしているわけでございません。私は年に四回の季刊誌への投稿もしておりますので、本職のダンプカードライバーをこなしながら、新作もどんどん作って行きたい所存です。

司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で、宮城県のことを巨大な米穀商と比喩しましたが、江戸時代中期の仙台藩の百万石突破は、藩祖・伊達政宗の抜群の先見性もさることながら、二人のカワムラの存在が大きかったと認識しております。本記事はもちろん、歴史エッセイのベースとして発展させたいと心得ます。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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